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「ルカノール伯爵」と「よき愛の書」比較論ー二つの作品の中世的面白さ
フアン・ルイス「よき愛の書」を読み、さらにその後に、ドン・フアン・マヌエル「ルカノール伯爵」を読むことで、前者を読んだ時点では見えなかった新たな発見があり、また二つの作品の比較を通して、さらに両作品に対する興味や面白さが増した。以下、同時代に編纂された二つの作品の比較を通して、各々の面白さについて述べていくことにする。
目次
ドン・フアン・マヌエルによる教え
“El Conde Lucanor”(以下「ルカノール伯爵」)を通して、ドン・フアン・マヌエルが読者に教えていることとは何か。
作者は、作品の中の51個のたとえ話と教訓(自分なりの解釈)から、キリスト教における、”魂の救済”(人が”生前の行いに応じて死後に得られる”神からの恩恵)を受ける条件に関して、主に以下のことを教えていると考える。
①「この世」と「あの世」における神からの恩恵について。
世の人々は、(この世において)名誉と富と身分を向上し、そして、(あの世において)死後、魂の救済を得る、すなわち、「この世」と「あの世」における栄光のためには、神が喜ぶことをし、そして、その報いとして神の恩恵を受けることが必要なのだということ。
②「この世」と「あの世」における栄光のためにすべきこと(神が喜ぶこと)について。
「この世」と「あの世」における、神からの恩恵を受けるためには、何よりも「善行」を積むことが大切であるということ。
③「善行」の条件について。
「善行」と言っても、ただ善い行いをすればいいというわけではなく、以下の五つの条件があり、これらが揃って初めて、神が喜ぶ完全な「善行」となり、全ての条件を満たした「善行」を行った者は十分に恩恵を受けることができるという。ただし、条件が満たされていないからといって神の恩恵を受けることができないというわけではない。
・正当な手段で行うこと
・純粋な罪滅ぼしの気持ちで行うこと
・与えることによって失ったという「損失」が意識される程の量を与えること
・神に対する愛だけのために行うものであって、この世の虚しい名誉や虚栄を求めるために行ってはならないこと
④「善行」の鉄則について。(上述した「善行」の条件が満たされない、あるいは、他人から何らかの影響を受けるなど)いかなる理由があっても「善行」が「善」であることに変わりはないのであり、(善行を)怠ってはならないのだということ。
⑤「善行」を行った後のことについて。
・人間性について-神が最も好み、人間にとって必要で、特に重要とされる資質、すなわち、「羞恥心」と「謙虚さ」を持ち、決して、「傲慢さ」あるいは「尊大さ」を持ってはならないのだということ。これらが、神が最も嫌う人間の罪だからである。
以上のように、作者は「ルカノール伯爵」を通して、同時代の作品である「よき愛の書」においてフアン・ルイスが教えているように、「どうすれば人は魂の救済を得ることができるのか」という問いに対して、特に、「善行」の重要性・必要性を強調して教え、読者が「真実の(正しい)道」を辿り、永遠の栄光を得ることができるように教え導いているのだということが言えるだろう。
「ルカノール伯爵」と「よき愛の書」比較論ー二つの作品の面白さ
「ルカノール伯爵」の作者であるドン・フアン・マヌエル(1282‐1348)と、「よき愛の書」の作者であるフアン・ルイスは、同時代の人物として有名である。両者の作品を読んで分析し、それらを比較してみると、表現の差はあるものの、作品全体として彼らが読者に伝えていることは、上述したように、基本的には同じことであるということがわかる。実際、二人はそれぞれの作品の冒頭で、自らが作品を編纂した意図を以下のように語っている。まず、ドン・フアン・マヌエルが「ルカノール伯爵」を編纂した意図とは(既述したとおり)① 世の人々の名誉と富と身分が向上するため。②世の人々が魂の救済へ向かう道を踏み外さないため。一方、フアン・ルイスが「よき愛の書」を編纂した意図とは① あらゆる人々に善行を想起するように仕向け、良俗のお手本を引き合いに出すことによって魂の救済を得られるように教え戒めるため。以上のように、両者は本を読む多くの人々に、「いかにして魂の救済を得るのか」という、基本的には同じことを教えているのである。にもかかわらず、作品を読んだ後の印象として、「ルカノール伯爵」は、比較的、一読して作品全体(作者の意図や構造など)が容易に理解でき、納得もできた。しかし一方で、「よき愛の書」は、作者の意図に関して、実際にどんなものなのか、本当に上述した意図を持って作品を編纂したのか、疑問に思う部分が多く、一読して作品全体を理解することができず、作品を分析し、自分なりに納得するまでは、気持ちがもやもやして、何かすっきりしないということがあった。なぜ、このように、作品の理解度に差が生じたのだろうか。両作品の特徴を以下にあげ、比較してみることにする。
「ルカノール伯爵」の特徴
①「楽しくわかりやすい」たとえ話を通して教訓を与える
題材は、イソップ物語やシェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」、アンデルセンの「裸の王様」など、読者にとって身近なものを多く扱っており、さらに、物語には筋があり、内容も具体的であるため、楽しくわかりやすい。
②形式に一貫性がある。
前編51話を通して例外なく、以下のように、同じパターンで物語が進行する。
・パトロニオが、ルカノール伯爵の悩みに対して相応しい内容であり、かつ、面白くわかりやすいたとえ話をする。
・ルカノール伯爵が、たとえ話から教訓を得て、納得する。
・著者であるドン・フアン・マヌエルが、たとえ話の教訓を示す短詩で物語を締めくくる。
③一話ずつ物語が完結している。
一つ一つの物語が一話ずつ完結しているため、どこから読んでも面白く作品の全体像も捉えやすい。
④作者の立場が明確である。
相談役のパトロニオが、ルカノール伯爵に、たとえ話を駆使して、何が「善(悪)」であり、何を「すべき(すべきでない)」なのかを一方的に教え、そこからルカノール伯爵が、何が「善」で、どうすれば「この世」と「あの世」における救いを得ることができるのかを学ぶ。そして、それを言われたとおりに行動に移すというパターンが延々と続く。このように、一貫して「善」の要素を支持する内容から、神への信仰心が篤く、何よりも「神を支持する」作者の立場が明確であるため、読者の誰もが物語の内容と形式を通して、作者が意味する「善」とは何なのかを理解でき、(読者の)作品に対する解釈が統一される。
「よき愛の書」の特徴
①「わかりにくい」たとえ話を通して教訓を与える
題材は、簡潔で面白く簡単なものから、比喩や擬人法を用いた意味不明なもの、さらに、聖書まで、あらゆる難度のものを扱っており、さらに、物語(詩)には筋がなく、内容も抽象的なものが多いため、比較的、難しくわかりにくい。
②形式に一貫性がない。
「ルカノール伯爵」のように物語形式ではなく、詩形式であるということもあるが、作品全体を通して、際立った一貫性がなく、むしろ、話がよこみちにそれることが多い。
③一話ずつ物語が完結していない。
物語(詩)が「ルカノール伯爵」のように一話ずつ完結しておらず、また、一つ一つの物語の内容につながりがなく、まとまりがないため一読して作品の全体像を捉えにくい。以上のように、両者の作品の特徴を比較してみると、二人はあらゆる点で正反対であり、彼らが各々編纂した「ルカノール伯爵」と「よき愛の書」はまったく対照的な作品であるという印象を受ける。しかし、既述したように両者は、表現の差はあるものの、結局は同じこと、すなわち、「人はいかにして魂の救済を受けることができるのか」ということを読者に教えることを目的の一つとして編纂されたのである。それなのに、作品の理解度に差が生じるのは、上述したような、特に顕著な特徴である、対照的な文体の形式や構造、そして、表現の差が読者の理解度に影響を与えているのだろう。
さらに、これらに加えて、以下に記す、両者の特徴の第四番目の相違点が、特に大きな原因であると考える。まず、「ルカノール伯爵」の(読者にとって理解しやすい)第四の特徴としては、上述したように、④作者が作品を通して、何が「善」で、何が「悪」なのか、あるいは、何を「すべき」で、何を「すべきではない」のかを、はっきりと提示しており、作者の立場が明確であると言うこと。一方、「よき愛の書」の(読者にとって理解しにくい)第四の特徴としては、全く逆で、以下のようなものが考えられるだろう。
④作者の立場が明確でない。
作者が作品を通して、何が「善」で、何が「悪」なのか、あるいは、何を「すべき」で、何を「すべきではない」のかを、はっきりと提示しておらず、作者の立場が明確でない。作者が読者に、何が「善」で何が「悪」のなのかを、はっきりと教えるのではなく、「善」と「悪」の要素をとりまぜ、さらに美辞麗句によってわざと表現をあいまいにした内容の物語詩を、作品の随所に配置することで、「善」と「悪」どっちでも解釈できるようにし、最終的に読者各々の価値観にその判断を任せるというもの。このように、作者が、一貫して「善」の要素を支持していなければ、また他方で、「悪」の要素も決して否定してはいないという奇妙な内容から、作者が聖職者として「神を支持している」のか、それとも、人間として「女(肉欲)を支持している」のか、作者の立場が明確ではないため、読者は、作者が意味する「善(悪)」とは何なのかをはっきりと認識できず、読者によって「善」と「悪」の価値観が異なれば、当然、作品に込められた意味の解釈も人によって異なってくるというように、(読者の)作品に対する解釈に、これといった統一性(普遍性)がない。以上のことから、様々な特徴の違い、要するに、読者にとって内容が「わかりやすい(簡単)」か「わかりにくい(難しい)」か、あるいは、「楽しい(面白い)」か「楽しくない(面白くない)」かの違いが、同じ意図を持って書かれたにもかかわらず二つの作品をまったく異なったものにし、両作品を比較した場合、作者の意図や作品の解釈における(読者の)理解度に、「ルカノール伯爵」と「よき愛の書」の間で、差が生じる原因であると思われる。
二つの作品の面白さ
興味深いのは、二人の作者が、故意的に「わかりやすい」形式と「わかりにくい」形式にしているということである。二人は、作品の冒頭で以下のように言っている。まず、「よき愛の書」のフアン・ルイスはこう言っている。
「善と悪をとりまぜた曖昧な、しかし洒落た口調で物語る、この書の意図するところを、どうか鋭く察知してもらいたい。」
「よき愛の言辞はベールに覆われたものなので、努めてよき愛の確かな手がかりが得られるような箇所を見つけることだ。」
と。つまり、フアン・ルイスは、当初から、自らが作品に込めた意図を、読者にとって、わかりやすく、しかも明確に教えようとは思っておらず、わざと曖昧にして、作品をわかりにくくさせているのである。そして、その上で、最終的な判断は読者に任せるのだ。これは、作者自身が、実際のところ、自らの立場(聖職者として「神」への愛を支持するか、人間として「女」への愛を支持するか)に対して、少なからず、迷いがあるからではないかと考える。だからこそ、読者にも考えさせるように配慮しているのではないだろうか。そして読者も、作者の狙い通り(作者と同じように)、悩んで迷って、結局は自分なりの答えを出すのである。ここに、作者が作品に込めた表向きの意図とはまた別の意味があるように思われる。フアン・ルイスが、「神」と「女(肉欲)」との間で葛藤し、悩み迷うこと、そして、そうした葛藤が、少なからず彼の作品に反映されるということは、彼が聖職者であるということを考慮すると、決して肯定できない、重大な罪なのかもしれないが、ある意味では、彼の人間らしい部分も垣間見えるようで、興味深い作品である。
余談であるが、映画「アマロ神父の罪」で、聖職者であるにもかかわらず、信者である少女との禁断の愛(狂った愛)に走り、あってはならない罪を犯したアマロ神父(ガエル・ガルシア・ベルナル)が口にした、「聖職者であっても、人間だ」という言葉が、妙に印象深く、書を読み、分析しながら頭をよぎって、考えさせられた。フアン・ルイスの立場にも、同じことが言えるのだろうか。このように、表向きは、「女(肉欲)への愛」を戒め、「神への愛」を支持する立場であることを表明しておりながらも、一方では、葛藤や迷いも伺えるという、作者の人間らしさも感じられるということ、そして、何が「善」(正しい)で、何が「悪」(正しくない)なのかは別として、上述したように、(自らが作品を編纂した意図とは別に)作者が読者に対して特定の答えを強要せず、むしろ、何が答えなのかを読者自身に考えさせる、そして、読者によって様々な解釈があってよいという、「制限のない、解釈の自由さ」が「よき愛の書」の面白さであると考える。
一方、「ルカノール伯爵」のドン・フアン・マヌエルは、(ある意味フアン・ルイスの「よき愛の書」に対する批判のようにも聞こえる)以下のことを言っている。
「人に何事かを教えようとする者は、学ぶ者が満足するような方法でもって示してやらねばならない。難解なことは理解不足から頭に入らないので、そのような本を読んだところで楽しくなく、書かれている内容を学ぶことも、理解することもできないのである。」
と。つまり、ドン・フアン・マヌエルは、フアン・ルイスとは全く逆であり、自らの作品に込めた意図を、読者にとって、わかりやすく、しかも明確に教えようとして、(楽しさや面白さを求めるなどのあらゆる配慮をして)作品を編纂したのである。これは、フアン・ルイスとは対照的に、ドン・フアン・マヌエル自身が、自らの「神を支持する」立場に、何も迷いがないからであると考える。こうした意味で、「よき愛の書」と比較して、人間らしさというよりかは、信仰心の篤い、少し生真面目な作品であるという印象を受ける。しかし、だからこそ、ドン・フアン・マヌエルが教えているように、読者は、わかりやすい形式と内容から、迷うことなく、楽しんで作品を理解でき、作品に込められたあらゆることを学ぶことができるのであろう。これが文学の面白さでもある。そして、文字通り、これが「ルカノール伯爵」の面白さである。
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