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賢王アルフォンソ10世「聖母マリア頌歌集」考察―カンティーガに見る聖母マリアイメージ

カンティーガ(Cantiga)とは、中世のイベリア半島における単旋律の歌曲(頌歌)である。ヨーロッパに広がる聖母マリアにまつわる伝説を基にした「聖母マリア頌歌集(聖母マリアのカンティーガ集)」(The Cantigas de Santa Maria)は、13世紀のスペインにおいて、歴史・医学・天文学・音楽まで広範囲にわたる数々の文化的業績を残したアルフォンソ10世が、とりわけ心を傾けた作品とされている。構成として、400曲以上の歌からなり、その大部分は物語的・叙情的な内容の形式で、彼女によってなされた数々の奇跡を歌っている。また、10曲ごと(10、90、140、260、330番…)に彼女を讃える叙情的な頌歌と、挿絵として美しい細密画(ミニアチュール)が交えられている。今回は、これら400曲以上の歌の中から、いくつか個人的に興味深い歌(1、3、4、5、6、7、9、279、401、425番)を取り上げ順番に分析していく過程で、以下に設定する三つの問題について考察する。

問題設定

(1) 聖母マリアとはどのような人なのか、多角的に「聖母マリア像」を捉える。
(2) アルフォンソ10世は、なぜマリアを讃える歌を編纂したのか。
(3) 「聖母マリアのカンティーガ集」の持つ意味とは何か。

カンティーガに見る聖母マリア像

<1番>
1番は、聖母マリアがキリストから受け取った七つの喜びについて賛美した歌である。マリアが、息子であるイエス・キリストから受け取った喜びとはどのようなものなのか。彼女の喜びとして、歌では、大天使ガブリエルによる受胎告知、キリスト生誕の喜び、東方三博士の礼拝とプレゼントの喜び、キリスト復活の喜び、キリスト昇天の喜び、そして、天でマリアがキリストから受けたという戴冠の喜びなどが歌われている。中でも、特に興味深いのは、マリアが大天使ガブリエルによってキリストの受胎告知を受けたということである。なぜ、マリアが選ばれたのであろうか。キリスト生誕の受胎告知をしたガブリエルは、「聖母マリアカンティーガ集」だけではなく、スペイン最古の英雄叙事詩「エル・シドの歌」などをはじめとするキリスト教精神がよく反映された多くの文学作品にも度々登場し、天からの告知をする天使として描かれている。さらに、ガブリエルの告知の場面は、絵画などにも描かれている。特にガブリエルに関して興味深いのは、上述した絵画において、常に百合の花を持っているということである。つまり、百合の花は大天使ガブリエルの象徴なのである。そして、また(百合の花)は、処女の性を表すとも言われている。

一方、マリアに関して興味深いのは、彼女が(伝説において)処女のままキリストを身ごもったということである。マリアの処女懐胎については、新約聖書の「マタイの福音書」(ガブリエルは、マリアの夫ヨセフに受胎告知をしたと記述)と「ルカの福音書」(ガブリエルは、マリア自身に受胎告知をしたと記述)において記述されている。また、マリアも、(大天使ガブリエルと同様に)「百合の花」を自らの象徴としている。つまり、「百合の花」は、ガブリエルの象徴であると同時に、聖母マリアの象徴でもあるのだ。これは偶然であろうか。それとも、マリアが唯一(キリストの母として)選ばれたことと何か関係があるのだろうか。あるいは、ガブリエルからの受胎告知を受けたから、マリアは「百合の花」を自らの象徴としているのだとも考えられる。いずれにせよ、(ガブリエルの受胎告知は)不思議な因縁を感じさせる二人のエピソードであり興味深い。以上のことから、この時点(1番)で、マリアとは「普通の人間」ではない、神によって選ばれた「特別な人間」であるということがわかる。ではマリアの喜びを歌に詠み讃えることはアルフォンソ王にとってどのような意味を持つのであろうか。さらに歌の分析を進めることにする。

<3番>
3番は、悪魔に魂を売り渡したテオフィロを救ったマリアを賛美した歌である。ユダヤ人のそそのかしにより神に背くという罪を犯したテオフィロは、なぜ救われたのであろうか。テオフィロは、神に背いたことを後悔し、神の母マリアの前で赦しを乞い、救いを求めたからである。マリアは彼の声を聞き入れ、神であり、息子でもあるキリストに罪の赦しを頼んだのだ。つまり、罪を犯し、罰を受ける立場にある者であっても、自らが犯した罪を後悔し、赦しを乞うことで、救われるのである。

<4番>
4番は、父親によって殺されかけたユダヤ人の子供を火の中から救ったマリアを賛美した歌である。ユダヤ人の子どもは、なぜ救われたのであろうか。ユダヤ人の子供が教会で見た聖母マリアの絵に、宗教とは無関係に、美しさ・優しさを感じ、無意識のうちに列に並び、彼女からの聖体拝領を受けていたからである。マリアから聖体を受けた瞬間に、ユダヤ人の子どもはマリアによって守られる身にあったのだ。つまり、異教徒であっても、マリアを心から美しいと思い、愛することで、救われるのである。一方で、マリアを崇拝し、彼女に守られる身にある息子アベルを殺そうとしたユダヤ人の父親のように、マリアに背く立場にある者は、罪となり「死」という罰を受けることになるのである。

<5番>
5番は、セサリアという町を背教者ユリアヌスから守ったマリアを賛美した歌である。ユリアヌスはなぜ殺されたのであろうか。理由は少なくとも二つ考えられる。一つは、マリアやキリストを崇拝するキリスト教徒を殺そうとした「背教者」であるからだ。ちなみに、実際に史実におけるローマ皇帝ユリアヌスも、当時主流となりつつあったキリスト教に抗して伝統的な多神教(異教)の復活を策した背教者として有名である。二つ目の理由は、ユリアヌスが、聖バシリオの差し出したパンを受け取らず、代わりに干草を食べるように勧めたからである。イエスが最後の晩餐において、パンと葡萄酒を取って、12人の使途に「これは私の体である、これは私の血である」と話したことに基づき、パンと葡萄酒が、イエスの体と血を象徴する神聖なるものであることはよく知られている。よって、パンを拒否するという行為は、神であるキリストを否定することになり、そして、キリストを否定するという行為は、彼の母マリアをも否定することにも繋がるのである。したがって、ユリアヌスは、キリストを、そして、マリアをも侮辱するという二重の罪を犯し、「死」という罰を受けることになったのであると考える。また、「背教者」であるユリアヌスを殺したのが、聖メルクリオという「キリスト」の騎士であるという設定からも察せられるように、歌にはキリスト教における「背教」という罪の重さ、そして、批判が風刺的に書かれている点でも興味深い。以上のことを考慮すると、ユリアヌスは、ほかの者への今後の戒めとして、「見せしめ」の為に殺されたのだということもいえるだろう。

<6番>
6番は、マリアの歌を歌ったためにユダヤ人によって殺された少年を蘇らせたマリアを賛美した歌である。なぜ、マリアは少年を蘇らせたのであろうか。また、冒頭の祈りにある、「誰が自分のために苦しんだのかわかっていらっしゃる」とはどういう意味であろうか。マリアが少年を蘇らせた理由の一つは、殺された少年が、マリアを崇拝していたからである。少年がマリアを崇拝していたかどうかは、彼が生まれてすぐに聖母マリアに捧げられたこと、また、マリアの歌を好み、上手に歌っていたことからも推測できるだろう。そして、彼の歌を聴いた人が思わずうっとりと聴き入ってしまうということは、少年がマリアの歌を大切にし、心を込めて歌っていたことの証でもあるだろう。つまり、少年はマリアを崇拝し、彼女の歌を歌ったために殺された一方で、マリアを愛し、彼女の歌を歌ったために救われたともいえるのである。以上のことから、マリアを愛し、彼女の歌を歌うことの恩寵がどれほど大きなものなのか、徐々に理解できてくる。

マリアが少年を蘇らせた二つ目の理由は、少年を唯一の慰めとして生きていた母親に対する、マリアの同情によるものであると考える。というのは、少年の母親が置かれている状況(息子の死)は、マリア自身も経験したことがあるということから、マリアが、少年の母親の気持ちを痛いほどに察し、共感することができるのだと考えるからだ。聖母マリアの「悲しみ」の一つに、息子イエスの十字架の刑による「死」が挙げられる。母親にとって、息子の「死」から受け取る悲しみ・苦しみがどんなものなのかを知っているマリアは、殺された少年の母親の祈りを聞き、同じ母親として、彼女(少年の母)の大切な息子がいなくなったことに対する不安、そして、後に息子が殺されたということを知って、彼女が受けるであろう、苦しみや悲しみを理解し、同情を寄せたのではないだろうか。さらに、マリアの生涯において、息子であるイエスから受けた感情は、上述した「悲しみ」だけではなく、当然のことながら「喜び」もあるのである。マリアの喜びの一つとして、キリストの「復活」が挙げられることから、息子が「死」から蘇る(復活する)ことの喜びがどんなものなのかをも知っているマリアは、彼女自身と同じ境遇で、悲しみ苦しむ少年の母親に、自分自身が受けたのと同じ喜び(息子の復活の喜び)を与えるためにも、少年を蘇らせたのではないかと考える。また、このように優しいマリアは、「自分の歌を歌った為に」殺された少年、そして、「自分のために」大切な息子を失い「悲しむ母親」を見ていることができなかったのであろう。だとしたら、冒頭の祈りの言葉が意味することにも納得できる。以上の6番の歌から、少なくとも四つのことがわかる。第一に、マリアを愛し、彼女の歌を歌う者は、たとえ死者であっても蘇らせられ、救われるということ。第二に、彼女のために苦しみ悲しむ者、あるいは、(マリアと同様に)大切な息子を失い、苦しむ母親は、マリアを崇拝する立場にある限り救われ、受けた苦しみ以上の喜びを与えられるのだということ。第三に、マリアの歌に不快感を覚え、少年を殺したユダヤ人のように、直接ではなくともマリアに背く立場に在る者は、罪となり「死」という罰を受けることになるのだということ。そして、第四に、マリアの母親としての優しさや、悲しみ苦しむ者に同情を寄せる慈悲深さをも垣間見ることができるのである。

<7番>
7番は、悪魔によって道を踏み外し、妊娠するという罪を犯してしまった修道尼院長を救ったマリアを賛美する歌である。このように、悪魔によって誤った道を歩む人間の姿は、「聖母マリアのカンティーガ集」だけではなく、他の、特にキリスト教精神がよく反映された文学作品などにおいても、比較的多く見られる設定である。なぜであろうか。こうした(悪魔に誘惑され、道を踏み外してしまう)場面は、どのような意図を持って、何を伝えるために描かれるのであろうか。また、悪魔の誘惑によって、うっかり罪を犯してしまった人々は、どのように行動すれば罪が赦され救われるのであろうか。(歌で語られている修道尼院長のように)かつては神の庇護にあった者が、悪魔の誘惑によって道を踏み外してしまうという設定は、旧約聖書を題材にした文学作品として有名なJ.ミルトン(1608-1674)の長編叙事詩「失楽園」の第九巻と第十巻(旧約聖書「創世記」の第二章と第三章に語られる、神による人間の創造と、その人間の堕落の場面を基にした部分)に当てはめて考えることができる。つまり、神によって食べることを禁じられていた善悪の知識の木の実を、まずイヴ(神によって創造された最初の女性)が蛇(神の怒りに触れ堕天使となったサタンの化身)の誘惑によって食べ、彼女に続いて、アダム(神によって創造された最初の男性)もイヴを愛するがゆえに食べてしまったことで罪になり、二人は楽園を追いやられるという、あまりにも有名な、原罪(人間の最初の罪)が成就した場面である。上述した「失楽園」のアダムとイヴ、そして、歌の修道尼院長の両者に共通していることは、かつては神の庇護の下にありながら、悪魔(蛇)の誘惑によって道を踏み外し、罪を犯してしまったということである。こうした場面には、悪魔という「誘惑」に負ける「人間の弱さ」が反映されているといえる。

ちなみに、悪魔の「誘惑」に打ち勝った偉大な人物としては、後に、神であり救世主でもあるとして人々(キリスト教信者)に崇められることになるイエスが有名である。新約聖書の荒野における悪魔によるキリストの誘惑の物語、特に(「ルカによる福音書」第四章で語られる)40日間荒野で断食をして飢えているイエスのところへ悪魔がやってきて、パンを食べるように誘惑するが、イエスはその誘惑をことごとく退けるというものである。以上のことから、「失楽園」や「聖母マリアのカンティーガ集」をはじめ、キリスト教精神がよく反映されている文学作品において、人間が悪魔によって道を踏み外してしまうという場面が比較的多く見られるのは、上述したように悪魔の誘惑に勝った偉大なるイエスによる、人間すべてに向けられた、悪魔の誘惑に対する警告、あるいは、誘惑に打ち勝つことへの教訓を反映したものなのではないかと思われる。さらにもう一つ、「失楽園」のアダムとイヴ、そして頌歌集の修道尼院長の両方に共通していることは、罪を犯した後の行動である。両者とも、罪を後悔し、神(神の母マリア)を愛し、赦しを乞うべくおすがりしたことで罪の赦しを得ているということである。以上の、アダムとイヴ、そして、修道尼院長の二つの共通点から、少なくとも以下の二つのことがわかる。第一に、人間は神によって創られたすばらしい存在である一方で、時に誘惑に負けるという弱さも備えている。しかし、大切なのは、罪を犯した後の行動であり、罪の意識を持ち、神(神の母マリア)を愛し。おすがりすることで赦しを得ることができるということである。そして、ここ(罪を犯した後の行動)に、罪を赦されたアダムとイヴ・修道尼院長と、罪を赦されなかったサタンの、両者の明暗を分けた根本があったといえるだろう。第二に、神の怒り触れ、赦しを乞うどころか、逆に反抗してしまった悪魔サタンのように、神に背く立場にある者は、永遠に罪の赦しを得ることはできないのだということである。

<9番>
9番は、信じる者を救う一方で、疑う者を罰し、自らの存在の確かさや疑うことの愚かさを示したマリアを賛美する歌である。なぜ、マリアは自分の絵姿に肉をつけ、油を流したのであろうか。この9番の歌で興味深いのは、マリアの絵姿を持つことで、ライオンや強盗から守られ、そして、その高徳に目がくらみ、絵姿を手離さず、自分たちの教会に持っていこうという邪まなことを考えると嵐に遭うという危機に陥り、神の声にしたがって絵姿を掲げ、心をこめて祈ることで嵐も静まり、救われるという、僧自身の行動や心の移り変わりにしたがって、彼の状況も悪化したり好転したりと、面白いように変化していく様子が語られ、そして、最後にとどめを刺すべく絵姿に肉をつけ油を流すという、現実においては考えられないような現象を起こし、疑い深い僧の心を圧倒してしまうという、今まで(主に信者を救い、背く者を罰するマリア)には見られなかった新しいマリア像(疑う者を戒め、自らの存在の確かさを証明するマリア)を語っているということである。

また、まるで僧と共に私たちも、マリアが起こした奇跡的な出来事を体験しているかのような臨場感があるため、彼の状況を見聞きする私たちにとっても、マリアの存在の確かさ、そして、常に彼女を思うことの大切さを認識させる効果をもたらせているというのが面白い。以上のことからわかるように、マリアが自分の絵姿に肉をつけ、油を流させた理由は、マリアの存在の確かさを僧に思い知らせ、今後僧が再び疑うことのないように、彼の心を戒める為であると考える。要するに、「見せしめ」としてのものである。絵姿に肉がつき、油が流れるなどという、現実には起こりえない不思議な経験から、僧は、マリアを信じ、心をこめて祈ることによって救われる一方で、疑い、邪まな考えを抱くとそれは「罪」となり、罰せられるのだということを、身をもって学んでいくのである。また、人間の心理から考慮しても、上述した奇跡のような体験をした僧は、今後マリアの存在を疑うなどという気には、到底なるはずがないだろう。そして、油が流れている限り、僧は、彼自身が目にした奇跡的な出来事、現象を忘れることはなく、常に(油が流れているのを見る度に)マリアのことを思うことになるのである。ここに、油が今でも絶えず流れていることの意味があるのだと考える。この9番の歌から、少なくとも二つのことがわかる。第一に、マリアが存在することは確かであり、彼女を信じて祈りを捧げ、常に彼女を思い続けることによって、人々は救われ守られるのだということ。そして第二に、マリアの存在を疑い、(自らの利益のためにマリアの絵姿をせしめようとすること、あるいは、自らが助かるためにマリアの絵姿を海に投げ捨てようとすることなどのように]邪まな考えを持つと、それは神に背く「罪」となり、罰せられるのだということである。キリスト教にとって、いかに「偶像崇拝」が大切なものなのか、ということを考えさせられる興味深い歌である。

アルフォンソ王が「聖母マリアカンティーガ集」を編纂した意図

<279番>
279番は、重い病に冒され苦しんでいたアルフォンソ王を救ったマリアを、王自身が賛美した歌である。今までは、比較的客観的な視点からマリアを捉え、主に聖職者や世俗の人々に起こった数々のマリア伝説を語っていたが、ここではアルフォンソ王自身に対して、聖母マリアがなした奇跡を語っている。つまり、279番で初めてアルフォンソ王自身のマリアに対する想いが顕在化されており、かなり主観的な内容となっているのだ。また同時に、この279番の歌は、アルフォンソ王自身がマリアの愛、そして、恩寵を受けたことの証であるとも言えるのだ。では、なぜアルフォンソ王はこの279番の歌をマリアに捧げたのであろうか。アルフォンソ王が、自らが体験した奇跡を歌にした理由としては、少なくとも279番までの分析においては以下の二つが考えられる。第一に、マリアのすばらしさを褒めたたえ、また同時に、それを、歌を聴くすべての人々(後世)に伝えるためである。アルフォンソは、279番の歌で、マリアの恩寵を受けたことにより自らの重い病が癒え、救われたことを語り、重病までも治してしまうマリアにとって、できないことなど何もないのであり、だからこそ人々に賞賛されるすばらしい方なのだと、彼女をこれ以上にはないほどに褒めたたえている一方で、実際にマリアの恩寵を受けた人にしかわからない彼女のすばらしさを、マリアだけではなく歌を見聞きするすべての人々にも伝えているように思われる。歌で興味深いのは、病に侵されるアルフォンソ王の苦しみが痛いほど伝わってくる一方で、彼がマリアの力を信じて苦しみの中から救いを求めて祈ることによって、彼の苦しみが徐々に和らいでいくという、彼の状態の変化が、歌詞を通してはっきりと伝わるということである。つまり、歌を通して、私たちはアルフォンソ王自身がマリアの恩寵(アルフォンソの苦しみの声を聞いたマリアが、彼の苦しみを取り除き、病までも治したこと)を受ける瞬間を共有できるのである。王自身の体験であるということもあってか、非常に説得力があり、リアルで共感しやすい歌である。

このように、伝説というものは、実際に何かを経験した者(当人)が語ったことを、誰かが見聞きし、共感することによって、さらに見聞きした人々が誰かに伝える・・・というように、代々と広まり、語り継がれていくものであると考える。そして、(「聖母マリアのカンティーガ集」の大部分を占める)ヨーロッパに広がる数々のマリア伝説も、元々は実際にマリアの恩寵を経験した人々が語り、伝えた話であると考えると、アルフォンソ王自身が、自らの身に起こった奇跡を語るこの279番の歌も、そのマリア伝説の一つとして新たに付け加えられ、後世に語り継がれていくのであろう。以上が、アルフォンソが279番の歌を歌った第一の理由である。第二に、自らの身に奇跡を起こし、重い病から救ってくれたマリアに、感謝の意を示すためである。アルフォンソのように、一度マリアの恩寵を受けた者は、マリアに感謝の意を示し、その後も変わらぬ愛を持って、彼女を褒め称え続けることが大事なのであろう。それ(感謝の意を示すこと)が道理であり、そうすること(感謝の意を示すこと)によって、マリアは再び救いの手を差し伸べてくれるのであろう。以上の二つが、アルフォンソが自らの体験した奇跡を279番目の歌に語った理由であると考える。

アルフォンソは、現時点ですでに279曲という膨大な数の歌を作り、マリアをあらゆる角度から褒め称え、そして、自らに与えてくれた恩寵に対する感謝の意を示した。つまり、単にマリアのすばらしさを称え、感謝の意を示すには十分な(十分過ぎる]数の歌を作ったといえる。しかし、歌はまだ終わらない。それどころか、まだ残り100曲以上もの歌がこの後延々と続くのである。このように、歌が続くことには何か意味があるのであろうか。さらに、401番まで歌を聴いていくと、やはり、アルフォンソにとって(歌が続くことには)大きな意味があるということがわかるのである。

<401番>
401番は、聖母マリアを称える多くの歌を作ったアルフォンソ王が、マリアに褒美を懇願するために作った歌である。401番まで分析してようやくわかることが、少なくとも三つある。一つは、(最初に設定した二つ目の結論でもある)アルフォンソ王が「聖母マリアのカンティーガ集」という、400以上にもわたるマリアを称える歌を作った意図である。すなわち、アルフォンソが本当に言いたいこと、伝えたいことは、401番目の歌に最も込められているのであり、それを伝えるために今まで苦労して400という数多くのマリアを称える歌を作ってきたのである。こうした意味で、今までの400曲は、401番目の歌を歌うための、いわば、前菜のようなものであり、またアルフォンソは、この一曲を歌うためだけに「聖母マリアのカンティーガ集」を編纂したと言っても過言ではないだろう。つまり、アルフォンソが歌を編纂した意図は、単にマリアを称え、自らに起こった奇跡に対する感謝の意を示すことだけにとどまらず、401番目の歌で語っている褒美(マリアを称える歌を作る代わりに、彼女からの恩寵を与えること)を得ることにあるのだということが、ようやくわかるのである。

さらに二つ目にわかることは、アルフォンソの当時(歌の編纂時)の状況・心境である。アルフォンソは、401番の歌で、一体いくつの願い事があるのだと言いたくなるくらいの、数多くの請願をしている。このように願い事が多い(多すぎる)こと、そして、内容が具体的である(具体的過ぎる)ことから、彼の心境も比較的掴み易い。また、願い事が多いからこそ、それに相応しい数多くのマリアを褒め称える歌を作る必要があったのかもしれない。つまり、アルフォンソのマリアへの請願の内容(例えば、敵であるモーロ人による攻撃への恐怖を取り除き、彼らに立ち向かい、打ち負かせるだけの十分な力を与えること、そして、もしかしたら自分の身に訪れるかもしれない「死」から守ること、さらに、自分を脅かす、あらゆる悪から守り、救ってくれることなど)から、当時、彼は、自らの死を予感し、さらに、死後のことまでも考えるほどの数多くの政治的・軍事的な不安や恐怖を抱え、苦しみ、悩んでいたのだということがわかるのだ。実際、史実においても、イベリア半島において、当時最も繁栄し、最も文化が栄えていた二つの都市コルドバと、セビーリャを征服し、レコンキスタに多大なる貢献をした偉大な王として「聖王」と呼ばれた父フェルナンド3世に対して、息子アルフォンソ10世は、アフリカ遠征の失敗や、その結果として起こるスペイン国内でのイスラム教徒の反乱、さらに彼の中央集権的姿勢に対して、世論や貴族の反乱が起こるなど、政治・軍事面において、比較的苦労や困難が多く、(少なくとも政治面・軍事面においては父ほど)恵まれていなかったとされる。以上のことを考慮すれば、アルフォンソがマリアに救いを求めるべく多くの請願をした意図にも納得できる。おそらくよほど精神的に追い込まれていたのであろう。

そして、三つ目に、はっきりと認識できることは、マリアの役割である。歌を一読して気がつくのは、救われた人々は、彼らの大部分がマリアに祈りを捧げ、マリアによって救われたものとして歌われているということである(例外として3番の歌があるが、400曲もの膨大な歌の中でも三番目という、最初の方で歌われ、また「聖母マリアのカンティーガ集」で語られるマリア伝説のほとんどが、マリアによって救われたものとして歌われているため、唯一3番目の歌で語られている「マリアの重要な役割」については印象に残りにくい)。以上のことから、彼らは直接マリアによって救われたかのように思われがちである。実際に、彼らがマリアによって救われたということは疑いの余地のない事実である。しかし、ただ一つ忘れてはならないのは、マリアがもたらす恩寵の背景には、神であり、人類の救世主でもあるキリストの存在があるということである。つまり、マリアがキリストに人々の願いを伝えるからこそ、キリストが人々を守り、彼らは救われるのである。要するに、マリアは、キリストと人間の取り成しをするという重要な役割を持った「仲介者」であるということがいえるのである。それが歌の中でアルフォンソが何度も彼の願い(自分をあらゆる悪から守ってほしいということなど)を、マリアを通してキリストに伝えてくれるように、必死で彼女に頼んでいることからはっきりとわかるのだ。もしマリアの仲介なしにキリストに願いを伝え、彼の保護が得られるのであれば、アルフォンソや人々はわざわざ遠まわしにマリアに(キリストに願いを頼んでくれるよう)頼むまでもなく、彼らは直接キリストに祈り、願いをかなえてくれるように頼むであろう。したがって、今までに歌われてきた数々の奇跡があったのも、マリアが彼らの祈りを聞き、罪を赦し、守ってくれるように頼んでいたからこそ、彼らは救われたのであるといえるのだ。言い換えれば、キリストの保護を得るためには、まずはマリアからの愛を得て、彼女の恩寵(キリストに願いを伝え、叶えてくれるよう頼んでもらうこと)を受けることがまず前提としてあるのである。そして、アルフォンソの願い(自らの保護)を叶えられるのは、神であるキリストだけであり、彼の意をキリストに伝えるという、あの世とこの世を行き来する仲介者として、両者の取り成しができるのは、神の母であるマリアだけなのである。以上のように、人々はマリアに愛されて初めてキリストの保護を受け、救われるのである。だからこそ、マリアはすばらしく、偉大であり、人々は彼女の愛を得て、(キリストに願いを伝え、叶えてくれるよう頼んでもらうという)恩寵を受けるために、彼女を最良の方として褒め称え、彼女が喜び、受け入れたくなるような素晴らしい歌を歌わなければならないのであろう。

<425番>
425番は、今までの歌のように、マリアを中心として彼女のみを賛美した歌ではなく、主にキリストを讃える歌となっている。それは、既述したアルフォンソ王の本心、つまり、歌自体を編集した目的でもある、キリストに彼の願いを叶えてもらうための手段ともいえる重要なものであり、ここでキリストを讃える歌を持ってきたことには大きな意味があると考える。というのは、マリアの愛を得るためには、彼女の息子であるキリストを讃えることが必要不可欠であると考えるからだ。キリストの生涯を褒め称え、彼の復活を喜び、歌にすることは、キリストの喜びであるだけでなく、キリストの母マリアの喜びでもあり、結果として二重の愛を得ることになるのである。もちろん、アルフォンソは歌においてマリアの存在も忘れてはいない。最もキリストの復活を喜ぶのは、彼の母マリアであるという、マリアの喜びを最後に強調することで彼女の喜びを称え、歌を、そして祈りを終えているのである。つまり、アルフォンソは立派に、マリアの恩寵を得る条件として最低限必要とされる、マリアを褒め称え、彼女が喜ぶ完全なる歌を完成させたということが言えるのである。アルフォンソが、後に願いを叶えられ、実際にマリアの恩寵(キリストの保護)を受けることができたかどうかは、歌では語られていないため断言できないが、少なくともアルフォンソが編纂した「聖母マリアのカンティーガ集」が後世にまで受け継がれ、現代において私たちが見聞きし、そして、(アルフォンソが)「賢王」として賞賛を受け、現代までその名が語り継がれているという意味では、アルフォンソの為しえた業績は大きく、彼の努力は無駄ではなかったといえるだろう。実際、彼は賞賛に値する様々な文化的遺産を、後世に残した王として有名である。そして、その中の一つとして「聖母マリア頌歌集」が数えられるのである。

以上いくつかの歌の分析によって、様々なことが明らかになった。最初に設定した一つ目の問題の結論として、改めて歌から見えてくるマリア像に関して、マリアの人物像、恩寵、そして、罰という三つの観点からまとめることにする。

第一に、彼女自身の人物像に関して述べると、マリアは主であり、神でもあるキリストの母として唯一選ばれ、キリストと人間の仲介者であるという役割を授かった特別な人であり、彼女を愛し崇拝する者、彼女を心から信じて救いを求める者、そして、彼女を褒め称える歌を歌う者などを、キリストを通じて守り、救うという、優しく、慈悲深い、最良の方としてキリスト教信者をはじめとする多くの人々の心の支えとなっている人であると言えるだろう。

第二に、マリアを愛し、信じて救いを求め、彼女を褒め称える歌を歌うなど、要するに、マリアを崇拝する立場にあることによって、彼女がもたらす恩寵について考慮すると、分析した歌からは以下のいくつかがあることがわかる。一つ目は、3番のテオフィロや、7番の歌の分析において述べたアダムとイヴ、そして修道尼院長の例からわかるように、「侵してしまった罪を赦す」ということである。二つ目は、6番のユダヤ人によって殺された少年の例からわかるように、「死者を蘇らせる」ということである。三つ目は、4番のユダヤ人の子どもや、9番の僧の例からわかるように、「あらゆる悪から守り、窮地から救う」ということである。四つ目は、279番のアルフォンソの例からわかるように、「病気の苦しみを取り除き、治してしまう」ということである。そして、五つ目は、上述した全ての恩寵の背後にもある、「唯一の仲介者としてキリストに人々の願いを伝え、それを叶えてくれるように頼む」ということがある。この五つ目に記した恩寵を受けて初めて、上述したすべての恩寵を受けることができるのだと考えると、五つ目の恩寵が最も大きく、重要なものであるといえるだろう。

そして第三に、マリアが罪であると見なし、罰を与える対象に関して考慮すると、歌からは以下のようなものがあることがわかる。それは、マリアやキリストを否定し、反抗する、あるいは、神を崇拝し神によって守られる立場にある者に対して危害を与えるなどといった、要するに、神やマリアに背く立場にある者である。これは、5番のユリアヌスや、6番のユダヤ人、そして、7番の分析において述べたサタンの例からわかる。以上が、歌の分析において明らかになった聖母マリア像である。そして、上述したマリア像や歌の内容から、最初に設定した二つ目の問題の結論でもある、アルフォンソが「聖母マリア頌歌集」を編纂した意図とは、単に、歌のタイトルにもなっているような、マリアを褒め称えることだけにとどまらず、彼女を褒め称えることによって、褒美をもらうことにあったのだということを明らかにした。歌を分析する中での最大の関心・目的は、(問題として冒頭で設定したように)マリアとはどのような人なのか、そして、アルフォンソが「聖母マリア頌歌集」を編纂した意図とは何であったのかを追求することであったが、実際に分析の過程において、他にも様々な発見があった。例えば、聖母マリアが人々に与えた影響や、人々にとってどのような存在であり、なぜこんなにも愛され、崇拝されているのかという、彼女の影響や彼女を崇拝することの理由、そして、キリスト教徒をはじめとする当時の人々の宗教観であり、彼らから見たマリア像などである。こうした歌の分析において明らかになった全ての知見をもとに最後に「聖母マリア頌歌集」という歌の持つ意味を述べて歌における最終的な結論を試みることにする。

「聖母マリアカンティーガ集」の持つ意味

アルフォンソにとって歌の持つ意味

まず、歌の編纂者であるアルフォンソ王自身にとって、歌がどのような意味を持つのか考えてみたい。分析において、歌は大きく分類して三つの構成からなっており、それぞれにおいて(アルフォンソにとって)意味があることがわかる。一つは、ヨーロッパに広まっている聖母マリア伝説をもとに、彼女が起こした数々の奇跡を賛美した歌である。これらはアルフォンソにとって、マリアのすばらしさを語り、褒め称えるためには必要不可欠な要素であるといえる。二つ目は、王自身が体験した奇跡をもとに、マリアのすばらしさを称えると同時に、彼女に感謝の意を示した歌である。これはアルフォンソにとって、後に語る、次なる請願へのステップにするためには必要不可欠な要素であるといえる。そして、三つ目は、上述した二つの事柄、つまり、マリアを褒め称えたこと、そして、自らの身に与えてくれた奇跡に対する感謝の意を示したことの褒美として、新たな願いを叶えてくれることを求めるための歌である。これはアルフォンソにとって、本来の目的を果たし、歌を完成するためには必要不可欠な要素であり、また同時に、歌が存在すること自体に大きな意味を持たせている重要な要素でもあるといえる。つまり、以上のことから、アルフォンソにとって「聖母マリア頌歌集」は、本来、マリアの恩恵を受けるための手段として編纂した歌であり、一つの作品であるということの意味を大きく超えた、(歌の)存在自体に大きな意味を持つ、神の母マリアに捧げられた神聖なる祈りの歌(ロザリオ)であるということが言えるだろう。また、こうした大きな意味を持つ歌を完成させたアルフォンソは、数々の伝説や、自らの体験を通して、マリアがどのような人で、どのような力を持っているのかをよく理解しており、さらに、何が正しくどうすればマリアに愛され、彼女からの恩寵を受けることができるのか、という彼女にまつわる物事の筋道がよくわかっているということがいえるだろう。だからこそ、彼女を褒め称えるこの歌を編纂したのであり、そして、既述した目的でつくられた歌は、何らかの形で後にアルフォンソに恩寵をもたらすことになるのである。したがって、アルフォンソは、少なくとも(冒頭で述べられていた)マリアの歌をつくる上で必要とされる二つの資質、すなわち、マリアに関しての「理解力」と「道理」を持ち合わせているといえるのである。

私たちにとって歌が持つ意味

では、こうしたマリアに関しての十分な理解力と道理を持って編纂された「聖母マリアのカンティーガ集」は。私たちにとって、どのような意味を持つといえるだろうか。これに関しては、歌を分析する過程において、以下の結論に至った。つまり、歌を通して、私たちに、聖母マリアとはどのような人で、どのような力を持ち、人々にどのような影響を与え、そして、どのような存在として崇拝されているのか、という多角的な「聖母マリア像」や、当時の人々の宗教観を知らせることができ、さらに、マリアやキリスト、そして、彼らを崇拝するキリスト教について知る上での知識や、興味・関心への入り口になるということである。聖母マリアという名前は、キリスト教徒でなくても、多くの人が知っている有名なものであるが、実際に彼女がどのような人で、どのような力を持っているのかなど、彼女自身については、(少なくともキリスト教徒以外の人々にとっては)その名前ほどよく知られていないのではないかと思われる。正直にいうと、私自身もその中の一人であった。

聖母マリアという名前は、映画や文学を通して見聞きしたことがあり、知っていたが、実際に彼女がどのような人で、どのような影響力を持ち、なぜこれほどまでに愛され、崇拝されているのか、という彼女自身については、歌を分析するまではほとんど何も知らないし、それどころか、考えたことさえもなかったのである。今考えれば、これほど有名な人についてまったく無知であったことは、恥であるとさえ思われ、また同時に、彼女についての知識をほとんど持っていなかった以上、今までに触れてきた映画や文学の本当の面白さ、そして、その本質を理解していなかったということを思い知らされたわけであるが。

しかし、歌を分析する過程において、マリアの人物像や影響力、そして、彼女を愛し、崇拝する人々の実情を知り、そこからマリアや彼女の背景にあるキリスト、そして、彼らを崇拝するキリスト教について興味や関心を持ち、調べていくことで彼らに対する知識を深め、改めて上述した映画や文学に触れると、様々な新しい発見があり、(マリアやキリスト、そして、キリスト教について)さらなる興味・関心を持つに至ったのである。以上のような意味で、聖母マリアは、キリストやキリスト教を語る上で、欠かすことができない重要人物であり、そして、彼女に捧げられた「聖母マリアのカンティーガ集」は、マリアや彼女の背景にあるさまざまな事柄を知り、理解する上で、その知識や興味・関心への入り口になることが期待されるであろう。

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