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19世紀イギリスの社会と女性〜ハーディ「ダーバヴィル家のテス」に見るヴィクトリア朝時代の光と影
原作は、ヴィクトリア朝時代(後期)の文豪であるトーマス・ハーディの名作「ダーバヴィル家のテス―純情な乙女」(Tess of the d’Urbervilles 1891)。ロマン・ポランスキー監督によって、英国ロマンの薫りふんだんに映画化もされています。
舞台となるのは、19世紀末イギリス、ドーセット地方にある村マーロット。話は、主人公である貧農の娘テスと、彼女を誘惑するアレク・ダーバヴィル、そして、相思相愛のエンジェル・クレアという二人の男性との関係をめぐって展開します。美しいテスは、名門ダーバヴィル家の子孫と思いこんだ親に言われるまま、ダーバヴィル家(実際はダーバヴィル家を騙る成り上がり者の家)に女中奉公に出されます。そこで働くうち、その家の若主人で道徳観念を持たないアレクに誘惑され、犯され、挙句の果てに私生児を孕んでしまいます。こうして、実家に戻り子どもを産んだのですが、その子はわずか数週間で(病気で)死んでしまいます。その後、(ずっと南方の大きな農園に乳搾りとして)再び働きに出た農場で、牧師の息子エンジェルと恋に落ち結婚します。
その夜、エンジェルは自分の過去の(女性関係についての)過ちを妻テスに語ります。そして、テスはアレクを許すと同時に、彼女自信も今まで隠していた忌まわしい(アレクに犯された)過去を打ち明けるのです。しかし、因習的な女性観に縛られていたため、アレクはテスの過去をどうしても許すことができません。結局、アレクはテスを置いてそのまま一人外国(ブラジル)に去っていってしまいます。再び彼が思いなおしてテスのところに戻る頃には彼女はアレクの愛人になってしまっていました。流転の人生の果てに再び彼とめぐりあうテスでしたが、もはや新たな選択は破滅を意味していました。尋ねあてて会いにきたエンジェルを一度は追い返すものの、(実質的にはアレクの妻でありますが)精神的にはいまだにエンジェルの妻であったテスは、最後に精神的な愛を貫くべくアレクを殺し、エンジェルと逃げるのです。しかし、二人にはさらに大きな試練が…、という悲劇的なストーリー展開。
悲しい展開だからこそ、ラストに映し出されるストーン・ヘンジの、崇高で、壮大で、しかも、不思議なまでに神秘的なシルエットが意味ありげなのでしょう。映画でも原作に忠実に話は進み、また、テスの美しさ(とくにアレクによる“誘惑の野いちご”をたべる有名なシーンでのナスターシャのまるで野いちごのようにほんのりと赤い唇の艶めかしさや、野卑な農家の中で際立つ清楚さなど)が自然の光と影の映像美と共によりいっそう魅力的に光り輝いています。
目次
作品の時代背景①:ヴィクトリア朝時代(1837~1902)の特徴―ヴィクトリアニズム
以下はほんの一部にすぎませんが、作品との関係からもとくに重要で、代表的なものを挙げます。
① 大英帝国の変遷-19世紀の大部分が繁栄の時代(イギリス黄金世紀)
1837年、ヴィクトリア女王が即位してから、人民憲章請願のチャーティスト運動、1846年の穀物法廃止、飢餓の40年代を乗り越え、1850年頃から始まっていた産業革命が1830年代に結実(鉄道などインフラの発達)。以後1851年のイギリス万国博覧会の開催で、イギリスは黄金世紀を迎え、帝国主義、植民地政策により「世界の工場」となり、数多くの植民地を抱える大英帝国として世界に君臨していました。しかし、1870年代頃から大不況期に突入し、世紀末には新興国アメリカとヨーロッパの雄ドイツに追い上げられ、1901年のヴィクトリア女王の崩御、そして、1899年から1902年までのボーア戦争でイギリスの国力が少しずつ失墜し始めました。
② 中産階級、新興階級(ブルジョワジーなど)の台頭とジェントルマン支配体制の強化
このようなヴィクトリア朝時代の大きな特色は、中産階級、新興階級などの勢力が拡大されたことでした。そして、以上のような中層階級の勢力が拡大すると同時に、上層階級(ジェントルマン)がそれら(中層階級の勢力)をまるまる自らの政治システムなどに取り込むことによって、当時圧倒的な支配力を持っていた“ジェントルマン体制”(19世紀の大部分にわたって大英帝国を支配していた巨大勢力)のさらなる強化・維持につながりました。
③ 上層階級の「プライド」と中層階級の「モラリティ」
旧来の先祖伝来の土地を受け継いだ地主・貴族階級の人々(いわゆる生まれながらのジェントルマン)は、家柄を基盤にした「プライド」という精神コードにつながれていたのですが、名門の家柄ではない(③のような)新興階級の人たちは、生活規範を「モラリティ」(ジェントルマンとしての在り方のようなもの)におくことによって貴族階級の家柄に対抗してゆかざるを得ない状況下にありました。そのため、中産階級、新興階級の人々は、地主や貴族階級と張り合うために、必要以上に厳しいモラル基準を自分自身に課し、(それがリスペクタビリティの象徴とされたため)彼らの態度や品行を模倣せざるを得ませんでした。
④ 俗物根性(スノビズム)
ヴィクトリア朝も中期以降になると、中流階級の俗物根性(名誉や利益などにばかり気をとらわれただジェントルマンを模倣する、要するに“ジェントルマン気取り”=疑似ジェントルマン)が批判され、これもヴィクトリアニズムの一つの特色になりました。また、これは彼らに対する厳しい「モラリティ」が求められた反動でもあります。
⑤ 女性に対する偏見とモラルの厳格さ
これだけ社会においてモラルが厳しかっただけに、ヴィクトリア朝の女性にとって、それ(モラル)は想像以上に(ありえないほど)厳しいものでした。世界でいち早くイギリスで起こり、1750(60という説も)年頃から始まっていた産業革命は、1世紀後(1830年頃には完了したとされます)には目覚しい発展を遂げ、手工業的家内工業がより大規模な工業となったために、男性は外で働くことになり、中流階級の女性は有閑マダム(つまり、仕事などは使用人に任せて家事などは一切なにもしない女性=レイディ)として家庭を守ること(のみ)が義務付けられました。有閑マダムといえば聞こえはよいのですが、男性にとっては理想的な妻になり、子どもたちにとっては理想的な母になるための厳しいモラルが押し付けられた「家庭内天使」でした(要するに、女性は「よき母、よき妻」として、家庭を守る天使のような存在であるべきだとされ、それが当時の“理想の女性像”だったのです)。 したがって、当然、(イギリスでは男性に対してでさえも教育はほとんど普及していなかっただけに)女性に対してはもちろん(とくに世俗的な普通の)“教育は必要ではない”とされ、彼女たちの教育は、中産階級以上であれば、ガヴァネス(住み込みの女家庭教師)によるものか、小さな私立学校、寄宿舎学校などで、女性としての“嗜み”として必要な程度の教養を身に着けました。
一方、貧しい下層階級の女性はその多くが教育の恩恵を受けることができず、働きにでる者がほとんどでした(たとえ教育を受けることができたとしても、慈善学校などにおける最低限の教育=3RSと宗教教育、そして、家事科目に限られたものでした)。こんな状況だから、当然のことながら、ヴィクトリア朝中頃では大学教育を受けた女性はいませんでした。また、教育のみならず、(1867年に第二次選挙法改正が行われたが、婦人参政権は、ヴィクトリア朝の頃は問題にされず、婦人参政権が認められたのは1928年であったということからも理解されるように、)女性は政治的にも経済的にも活動することを規制されていました。 こうした当時の女性たち(とくに中流階級の若い娘たちにとって)“結婚”こそが就職であり、人生の最大目標だったのです。本作品のヒロインであるテスの場合も、上記に同様(女性に対するモラル、労働、教育、結婚観など)なのですが、どちらかといえば彼女は、当時の「理想の女性像=家庭の天使」とは正反対の女性として描かれているといえます。こうした意味で、「テス」におけるラストの展開は、ある意味で、当時の女性に対する戒めのような意味もあったのではないかと思われます。
作品の時代背景②:19世紀ヴィクトリア朝時代(後期)の英国
① で見たように、イギリスの繁栄は1850年をピークとし、1870年頃には不況期に入り、国力も徐々に低下してくるので、(最盛期を過ぎた)19世紀後半は、ヴィクトリア朝がその内に抱え持つ様々な問題(宗教、モラル、社会問題など)を露呈し始め、また同時に、作家たちがそれに敏感に反応する、そんな時代でした。そして、ハーディもその一人でした。「テス」の舞台ともなっているヴィクトリア朝末期になると、一般的には、モラルが形骸化し、因習が揺るぎ始め(宗教や思想がその根底をゆすぶられ)ていったとされるのですが、本作品の舞台は英国東北部ドーセット地方の農村マーロット、つまり田舎なので、まだまだキリスト教の伝統や村の慣習も人々の中には色濃く残っていました。
こうしたことは、エンジェルに著しく反映されています。たとえば、とくに顕著なのは、結婚初夜にテスが過去の過ち(アレクに誘惑され犯されたあげく妊娠までしてしまったこと)をエンジェルに打ち明けた後の場面です。ここで、(たとえ過去にエンジェル自身がテスと同様の過ちをおかし、そのことを彼女が許してくれたとしても)テスの告白を聞いたとたんに態度を一変させ、以来冷ややかな目でテスを見るようになるエンジェルの姿からは、進歩的だと(本人は思いこみ)自惚れている人でさえも、依然として因習(とくに女性観や宗教観)と中流階級的な偽善(「モラリティ」や「俗物根性」)にとらわれているのだということがうかがえます。エンジェルにとって、もはや処女ではないテスは、“理想の女性像=家庭の天使”から逸脱した、要するに、“汚らわしい女性”として映ってしまうのです。
文豪トーマス・ハーディ
原作は、文豪のトーマス・ハーディ(THOMAS HARDY:1840~1928)です。ハーディは、1840年イギリス・ドーチェスター郊外の石工(建築家)の子にうまれ、22歳のときにロンドンに出て建築事務所に勤務し、27歳の時に故郷に帰り建築業を職としました。この頃から小説を書き始め、31歳の時に初めて本が出版されたといいます。ちなみに、彼の作品は6世紀のサクソン王国の領土であったウェセックス(イングランド南部)とほぼ同じ地域を舞台としているために、Wessex Novelsと呼ばれます。ハーディの作品のとくに顕著な特徴として、以下のふたつが挙げられます。
① 運命に翻弄される人々
ハーディは、ドイツの哲学者ショーペン・ハウエル(1788-1860)の影響を受けて、人間の運命は「内在意志」(Immanent Will)と呼ばれる力によって動かされ、これには人間の善意も通じないと考えていました。こうしたことから、舞台となる土地の自然を背景に、ハーディの作品は平凡な人間が非情な運命の力に動かされて滅んでゆく苦悩を描くのを特色とします。本作品「テス」も例外ではなく、真剣に生きようとしつつも、なぜか多くの出来事が彼女の必死の努力を次々と打ち砕いていくという、冷厳で仮借のない運命に翻弄される女性テスの姿を随所に描いています(たとえば、父に代わって蜜蜂を運ぶ途中に馬を死なせてしまうこと、そして、そのことが偽のダーバヴィル家へ親戚の名乗りをあげにいくことにつながり、それがまたアレクに誘惑され犯されてしまうことに…というふうに、うまい具合に因果が重なりあってテスの不運な人生が描かれているのです)。
② (世間からの批判を受けるほどに強烈な)社会批判・風刺
また、とくに有名なハーディの作品として、本作品の「テス」(1891)と、(ハーディ最後の作品である)「日陰者ジュード」(1895)があげられますが、両者とも世評はよくなく(とくに「テス」は)小説が発表された時、世間から厳しい非難をあびたといいます。いわれてみれば確かに、彼の作品には(一般受けしないような)多くの社会批判が強く織り込まれています。(その世間からの批判として)たとえば、本作品「テス」に関しては、ある場面の描写が風俗上好ましくない(テスの貞操が奪われる場面での性描写、テスが自ら洗礼を施す場面など)とか、人間関係や描写(エンジェルが娘たちを腕に抱いて水たまりを渡してやる場面など)が不道徳であるとかいうことは勿論のこと、私たち日本人には理解し難いかもしれませんが、反キリスト教思想に対する人々の反感(テスが逃避行の最後に辿り着き、心身ともに安息を得る場所は、異教の神の神殿ストーン・ヘンジであったことなど)がとくに大きかったといいます。
こうして、後期の作品「テス」(1891)、「日陰者ジュード」(1895)を最後に、55歳以降、彼は小説を書くことをやめてしまいました。しかし、「ハーディは自然主義文学の流れをくみありのままの人間を描いたので、必然的にキリスト教批判、階級社会批判、男女差別批判にならざるを得なかったのではないか」という肯定的な見方もあるように、実際は、ディケンズやサッカレーと並んで、ハーディは当時(ヴィクトリア朝時代の英国)を代表する偉大な文豪なのであります。ちなみに、ハーディは、1928年に、(彼の最後の家であると有名な)マックスゲートで87年の長い生涯を閉じました。
ストーン・ヘンジ
冒頭に書いたように、「テス」は映画化もされています。原作の自然描写(たとえば、遠近法的に描かれたマーロット村、牧歌的に歌われたトールボセイズ農場、写実的に厳しく写された荒涼としたフリントコウム・アッシュなど)ももちろん素晴らしいのですが、ウェセックスの自然とそこに暮らす人々の生活を捉えた映像が見事なのも、この映画の見どころとなっています。なかでもテスがエンジェルと最後の夜を過ごすラストの(ストーン・ヘンジの夜明けの)シーンが印象的でした。
陽に暖められた石の祭壇の上でエンジェルとの最後の夜を過ごし、ようやく安心して眠ることができたテス。朝焼けに(黄金色に)美しく、神秘的に光り輝く石碑、どこまでも続く麦畑、草原。まさにこの場所で、愛するエンジェルが見守る中、夜明けとともに彼女は…。このシーンはいまでも余韻があるくらいに強烈な(ある意味で見事な)場面でした。あまりにも美しい自然に対する感動と同時に、テスに感情移入し、私も身を引き裂かれるような思いで見ていました。最後はちょっと後味が悪いのですが、ナスターシャの美しさと19世紀当時の(ヴィクトリアンな)雰囲気がたまらなく好きなので、これもついつい飽きもせずなんども見てしまう作品です。
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