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カルデロン・デ・ラ・バルカ「人生は夢」多角的考察

スペイン黄金世紀の劇作家カルデロンの劇「人生は夢」 ”La vida es sueño” の展開を分析していく過程で以下の問題について考えてみたい。

問題設定
1、 バロック文体の特徴、カルデロンの技法をもとに考察する。
2、 メインプロットとサブプロットがどのように展開されていくのか。
3、 改心前のセヒスムンドは本当に「暴君」なのか。心理学的な分析も交えつつ、彼の人物像を分析してみたい。
4、 セヒスムンドが夢から学んだこととは。
5、 「人生は夢」のテーマとは。

目次

「第一幕」
(1)囚われの身にあるセヒスムンドの状況

<第一場:セヒスムンドが囚われている牢獄の外部>

セヒスムンドはどのような場所にいたのだろうか。ロサウラの台詞から、セヒスムンドが囚われている牢獄のある建物は、日の光も射し込もうとはしないほどの暗い山の中にある「低い建物」であり、外観は、まるで太陽に触れるかと思えるほど高くそびえる峰から谷底に転がり落ちた「ひとかけらの岩」のような粗末なものであり、扉は「不気味な口」のように開いていて、その奥から夜がうまれる、「恐ろしい魔法の塔」であるという。台詞を聞くだけで恐ろしい映像が浮かぶようである。このような人気のない山の中に迷い込み、不気味な建物を見つけたロサウラとクラリンは、そこで見てはいけない光景を目にする。何を見たのであろうか。ロサウラによると「黒い囚われの身で、獣の毛皮をまとった人間が、生きたまま埋葬されたような姿で、鎖につながれ、足枷をはめられ横たわっている」という。比喩を用いた表現が、緊迫した空気の中でひっそりと存在する建物の不気味さを醸し出し、また、そこで囚われているセヒスムンドの状態の悲惨さを如実に物語っている。これがカルデロンの技法の一つ「言葉の装飾」である。また、囚われの身にあるセヒスムンドが、人間である自分とほかの生き物(鳥、野獣、魚、小川など)とを対比することで、わが身の不運を表現する台詞も興味深い。(ちなみに、鳥は「羽をつけた花」、野獣は「創造主が絵筆で巧みに描いた花束」、魚は「鱗をつけた船」、小川は「銀の鱗」と表現されている。)自分は、他の生き物に勝る「魂」「本能」「心意気」そして「命」がある人間であるにも拘らず、本来ならば自分の方が与えられて当然の特権、すなわち「自由」を、ほかの生き物には与えて、自分には与えなかった神への怒り、そして「自由」がない苦しみや辛さが痛いほど伝わる。「光」のイメージをもつものと、「闇」のイメージをもつものとの対比、これもカルデロンの技法の特徴「明暗のコントラスト」である。しかし、なぜ今彼がこんな酷い状態にあるのであろうか。その理由は、現時点ではまだ明らかにはされないため、「囚われの身にある男」が一体誰であり、彼が囚われていることにどんな理由があるのか、観客にとってはまず興味深いところだろう。自らの不幸な身を「生ける屍」「死せる生き物」「人の姿をした怪物」などと呼ぶくらいに陰鬱な雰囲気にある、あまりにも気の毒なセヒスムンドであるが、ロサウラの声を聞き、彼女の姿を見ることで、つかの間の喜びと安らぎを得る。

劇におけるセヒスムンドとロサウラの出会いは全部で三回あり、これが始めての出会いである。お互いどのような出会いであったのだろうか。「お前の姿を目で追うごとにうっとりと見とれてしまう。見れば見るほどもっと見ていたいと思う。目にすれば死ぬとわかっていてもお前を目にしながら死んでいきたい」とセヒスムンド。男装しているにも拘らず、彼女の姿を死んでもいいから見ていたいなんて、よほどロサウラは美しいのだろう。それか、よほどセヒスムンドが飢えているかのどちらかであろう。いずれにせよ彼にとって、生まれて初めて見た女の美しさに対する感動と喜びの大きさが伺われる。
一方、「不幸な者は、さらに不幸な者を目にして慰められる」と言うロサウラも、現時点で彼女がどんな苦しみを抱えているのかはわからないが、セヒスムンドの哀れな姿を見ることで苦しみを癒され、さらには自らの苦しみをセヒスムンドに話し、与えることでお互いの不幸を慰めあう二人。以上のことから初めての出会いは、不幸な境遇にある二人がお互いに心の痛みを癒しあう、お互いが「光」のイメージを持つ出会いであったといえる。こうして舞台は、「暗」から「明」へ、つかの間の和みの雰囲気に包まれる。しかし、そこへクロタルドがやってくることで再び「暗」の雰囲気に戻る。以下、舞台の雰囲気はこのような「暗」と「明」の繰り返しが続く展開となる。これも劇の特徴である。国王の命令に背き、領内に立ち入ったロサウラとクラリンを銃で殺そうとするクロタルド。(ちなみに銃は「黒色の蛇」で、弾丸は「毒の玉」と表現されている。)剣幕するクロタルドに対して、「この二人が辱めを受けるのを見過ごし、ただ涙の滴をこぼすだけならこの岩山でこの手とこの歯でわが身をずたずたにしてみせる」と、二人をかばうセヒスムンド。自分の命を犠牲にして他人をかばう勇敢な面が見られる。こんな優しい面のある男がどんな罪を犯し、囚われているというのだろうか。謎が深まるセヒスムンドに対してクロタルドは、「天の定めにより、生まれる前に死んでしまったお前の不運」、「こうして鎖で繋がれているのは、その不遜な凶暴を鎮める轡、止める手綱である」などと、何やら意味ありげで興味深いことを言う。そういえば、セヒスムンドも劇の初めに「人の最大の罪は生まれてきたことにある」と嘆いていた。彼が「生まれる前」に何があって、「生まれたこと」にどんな意味があるというのだろうか。ますます彼に対する興味が増す。領地に入ってきた二人だけではなく、彼らを庇うセヒスムンドに対しても怒りをあらわにするクロタルドであったが、ロサウラが持ってきた刀を見て、なんと彼女が自分の娘であるということに気づく。ここで、彼の中にいくつかの葛藤が起こるのだ。「君主への忠義」か「娘への人情」か。恥辱を受けたロサウラは「わが子」か「わが子ではない」か、などなど。こうした登場人物(特にクロタルド)の「葛藤」も比較的多く見られる特徴の一つである。結局、国王の忠義を優先することで、自分の名誉に対する国王の情を期待し、あわよくばわが子の命も守られれば、という結論に至ったクロタルドは、国王の下へ向かう。

(2)囚われるに至った経緯とセヒスムンドの不幸な運命

<第二場:バシリオの宮殿>

「燦然と輝く彗星であった目」「天女にも似たお姿」「私の心を占める女王」などとエストゥレーリャを口説くアストルフォ。しかし、エストゥレーリャは、アストルフォが身に着けている二つのものから彼の本心を疑い素直に聞き入れられない。第一に、「物々しい武具」に彼の自分に対する殺意を感じていること。第二に、胸にかかっている「絵姿の婦人」にほかの女の存在を感じていることである。現時点でこの「絵姿の女性」が誰で、劇においてどんな意味があるのかはわからないが、少なくとも彼の口説き方に関しては、どうもいただけない。大袈裟にも美しさを賞賛しておきながら、胸には他の女の絵姿を持って口説くなんて、もってのほかである。言っていることとやっていることが矛盾しており、女としては、本当に好きなのか真意を疑うのも無理はないだろう。なぜこの女心がわからないのだろうか。それか、実際にほかに愛する人がいるのかもしれない。この二人の関係も劇において何か意味がありそうで興味深い。そこへバシリオがやってきて、これまで観客にとっても気がかりとなっていた劇の核心となる話、すなわちセヒスムンドが囚われの身にある理由、彼の運命にまつわる秘密などがようやく明らかにされるのである。まず、バシリオが最も精魂を傾けてきた「学問」の話がある。「不幸な者にとって、知識という才能は両刃の剣となる」そして、「自分の身に起こったことがそれを物語っている」などとバシリオが言っているように、この学問こそが不幸の始まりであり、悲劇の原因であったのだ。では、学問によってバシリオの身に起こったこととはどんなものなのであろうか。まず、バシリオには息子がいて、その子が生まれる前に、占星術によって天からの不思議な「前兆」を得たということが挙げられる。つまり、彼の妻クロリレネが恐ろしい毒蛇の姿をした息子によって喰い殺される夢を見たというものだ。そして、あろうことか前兆は現実のものになり、「キリストの死に血の涙を流して以来、太陽が被った最大にして恐るべき日食」あるいは「真っ赤な血に染まった太陽が衰弱し、臨終を迎えた星」とまで称されるほどに恐ろしく不幸な星の巡りのもとに、その野獣(セヒスムンド)は生まれたのだという。つまり、天からの「悪」の示しを信じたバシリオが、生まれてきた子にも、傍若無人、残忍、不遜などといった「悪」のイメージを持ち、結果として、予言の通りになるのを避けるために息子を幽閉し、さらにはその存在さえも隠してしまったのである。しかし、このバシリオの軽薄な判断こそが、後にセヒスムンドのような野獣を生む原因となるのであるから皮肉である。

(3)不幸なセヒスムンドの人生の転機

以上のように、惨めな囚われの身となり、養育係のクロタルドとしか人と関わる機会を与えられず、不幸で孤独に育ったセヒスムンドであったが、ここで彼に大きな転機が訪れる。バシリオが、自分が信じた運命の是非を確かめるべくある手立てを思いついたのだ。すなわち、セヒスムンドを自分に代わって王座に就け、誰もが彼に忠誠を誓うことで、セヒスムンドの人格が実際にどういうものなのか、確かめてみるというものだ。本当にセヒスムンドが予言の通り暴君なのかどうかは観客にとっても気になるところであろう。私自身もかなり興味深いので、後でまた分析してみたいと思う。では、なぜバシリオは急にそのような試みを思いついたのであろうか。理由は以下の三つの問題(葛藤)に対する答えを導くためである。第一に、ポロニアの王として、暴君の圧制と隷属に苦しむ祖国を救うために自分よりもふさわしい国王を選出する必要があること。つまり、「セヒスムンド」か、あるいは、「アストルフォおよびエストゥレーリャ」かの葛藤である。第二に、この世の法典と神が人に授けた自由の権利を、同じ血筋を持つセヒスムンドから勝手に奪うのはキリスト教の慈悲に反する罪深い行為であること。つまり、自分のした行為は「罪である」か「罪ではないか」という葛藤である。第三に、軽々しくも予言を鵜呑みにするのは過ちであること。つまり、不幸の原因は、「自分が予言を信じた」ゆえに起こったものなのかどうかという葛藤である。彼もけっこう大変なようである。運命が定めた責め苦にあっているのだろう。このように、長い台詞でも、内容が論理的に整理されているので、難しいがポイントが掴みやすいというのもカルデロンの劇の特徴であろう。以上のようにして、セヒスムンドの運は好転することになる。ちなみに、上述したように、バシリオ自身が秘密をぺらぺら話したことで、領地に侵入したロサリオとクラリンの罪は赦され、クロタルドの不注意も咎められることはなく、したがって彼ら三人の運も好転している。しかし、クロタルドは、ここでロサウラの恥辱の意味と、その恥辱を与えた相手の名が、主君であるアストルフォであることを知ることによって、再び「娘(家)の名誉」と「主君への忠義」という葛藤に苦しむことになる。

(4)メインプロットとサブプロットの展開の予測

ここで、名誉を傷つけられ恥辱を受けたロサウラの、アストルフォに対する復讐というサブプロットの筋の展開がはっきりと見えてくる。一方、メインプロットに関しては、セヒスムンドの運命に関わるものであることは確かであるが、まだこの時点ではそれがどんな展開となるのか予測がつかず、筋までは明らかではない。

(5)バロック文体とは( ” La vie est un songe ” の特徴、カルデロンの技法をもとに考察)

本作品から、カルデロンの演劇は、以前のロペ・デ・ベガの「当世コメディア新作法」の傾向を受け継ぎ、悲喜劇的要素を含む三幕構成、三一致の法則の無視、女優の男装、殺人などの反道徳的要素など、ロペの新しい演劇と共通する点が多く見られることがわかる。しかし、ここまで分析してすでに大きく異なる点もあることに気づく。すなわち、ことばの文飾による芸術的要素を持つ作品であるという点である。上述してきたように、カルデロンの文飾は、人間(囚人、女性美など)や動物などの生物から、建物、武器、小川、天体などの無生物まで幅広く表現されている。特に太陽や星などの天体に対する表現(例えば、「真っ赤な血に染まった太陽」など)は、運命的な物事の「暗」の成り行きを暗示しており、観客の視覚や聴覚など「感覚」だけではなく、「理性」にまで訴えかけるという意味で、ティルソの「セビーリャの色事師と石の客人」やロペの「フエンテ・オベフーナ」とは異質な印象を受ける。実際に、カルデロンの演劇は、思考や理論に基づいた綿密な計算のもとに、ことばを飾り立てる装飾的な技法、例えば、哲学的、詩的、絵画的要素、イメージやシンボルなどという、あらゆる表現を用いた巧みで緻密な「造形芸術」、あるいは、「劇の科学」であるとまで称され、ロペなどの演劇と比較しても、より知的で思索的な文体を練り上げたと言われる。以上のことから、カルデロンの ” La vie est un songe ” (1635)は、文飾を施した芸術的なことばを通して、劇の展開における筋や風景、心の動き、そして、あらゆる物事の根本的な意味を、「心」というよりはむしろ「頭」で考え理解させる、「理性」重視の作品であると考える。余談であるが、イギリスでも、文学において、得に「理性」が重視された時代(オーガスタン時代)があった。文学史上で区切るとアン女王の時代から(1702-14年)であるから、イギリスにおける「理性の時代」以前に、すでにスペインでは「理性」重視の作品があったといえるのは驚きである。ちなみにパロディ(リチャードソンの「パミラ(1740)」をパロディ化した、フィールディングの「シャミラ」)やピカレスク(スモレットの「ロデリック・ランダム(1748)」)など他のジャンルにおいても同じことが言え、セルバンテスの「ドン・キホーテ(1605)」や「ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯(1554)」などのスペイン文学が、英文学において与えた影響は明らかであるがカルデロンも少なからず影響を与えているのかもしれない。個人的には興味深いが話が大きく脱線したので本筋に戻ることにする。

「第二幕」
(1)セヒスムンドが王子になるまでの経緯

<第一場:バシリオ王の宮殿>

囚われの身にあったセヒスムンドが、王子にされるまでにどのような準備が整えられていたのだろうか。第一幕第二場において、バシリオが思いついた手立てが実行に移され、彼はクロタルドに以下の四つのことを命じる。第一に、効能あらたかな薬草を調合した口当たりの良い飲み物をつくり、セヒスムンドに飲ませ、眠らせること。この薬を飲むと、人は理性を奪われ、われを忘れ、その効き目の激しさに眠ってしまうという。実際に、薬を飲んだセヒスムンドは、酒が器から胸元に至るまでもなく力が抜け、手足が凍りつき、深い眠りについた。第二に、眠らせた上で車に乗せ、王子の身にふさわしく着飾り、壮麗に整えられた宮殿の部屋まで連れて来ること。第三に、薬の効き目がきれてセヒスムンドが目覚めたら、まるで国王に仕えるがごとくセヒスムンドに仕えるように手配を整えること。そして第四に、セヒスムンドに真実を伝えることである。こうして、全ての手筈が整った今、セヒスムンドに期待されている道は二つ。第一に、分別を持ち、寛大な心を持っていれば、「王座につかせる」というもの。第二に、予言の通り、残酷な暴君であれば、「再び牢獄に捕らえ、鎖につなぐ」というもの。そして、この第二の道に進んだ場合、ご親切にも、知ってしまったわが身の不運を嘆く残酷さを考慮し、「眠らせて」連れてくることによって、全て夢であったと思わせるという、「逃げ道」なるものまで用意されている。ここまで用意周到な試みであるばかりに、目が覚めたセヒスムンドがどう行動するのかは、観客としてもかなり興味深いところである。ここで、クロタルドとクラリンの会話から、クロタルドとの出会いをきっかけに、復讐に燃えるロサウラに三つの変化があったことがわかる。第一に、男装をやめ、元の姿に戻っているということ。これは、ロサウラの復讐を手助けしてやろうというクロタルドの寛大な心遣いによる変化である。第二に、名前を変え、クロタルドの姪御として名乗り、エストゥレーリャの侍女として、宮廷に使える身になったということ。これは、クロタルドの計らいによる名誉の変化である。そして、第三に、復讐の機会と時機を待つという、気持ちの変化である。

(2)セヒスムンドの運命の変化と「暴君」の誕生

一方、目覚めたセヒスムンドはどうなったのであろうか。まず、彼が驚いたのは現在自分が置かれている状況の変化であろう。大きな変化としては以下の三つある。第一に、「服装」の変化である。囚人として獣の毛皮を着せられていたと思ったら、目が覚めたら薄絹、金襴を身にまとい、着物を着ているのだからさぞかし驚いただろう。第二に、「場所」の変化である。クロタルド以外は人との関わりを許されておらず、生きたまま埋葬されていたと言うくらい暗い塔の牢獄の床で横たわっていたと思えば、目が覚めたら壮麗な宮殿の極上のベッドの上で、りりしく着飾った召使に囲まれているのだから。第三に、「周りの人間の態度」の変化である。牢獄で養育係のクロタルドにひどい目に遭わされ、憐れな身を嘆いていたと思ったら、目が覚めたら、召使はさることながら、あのクロタルドまでもが自分に対して忠誠を誓っているのだから。そして、第四に、何よりも「自由がある」ということである。鎖に繋がれ、足枷をはめられ、ほかの生き物に対するわが身の不自由さを嘆いていたと思ったら、目が覚めたら、自由な身にあったのだから。これ以上にはないくらいの不幸にあった彼にとって、まさに夢のような変化であったといえるだろう。そしてついには真実が告げられる。ここで彼がとった行動はいうまでもない。二つあった選択肢のうち第二番目の道「暴君」である。

(3)セヒスムンドの人物像―「暴君」であるかをめぐって

しかし、彼は、本当に「暴君」なのであろうか。何か腑に落ちない点もある。以後の彼の行動を見ていく中で、考えていくことにする。「この卑劣な裏切り者め。自分が何者か知ってしまったら後は何も知る必要はない。今日から俺の権力と権能を見せてやる。」と激怒するセヒスムンド。真実を聞かされた直後、ここが怒りの頂点であり、以後、他の登場人物との絡みに応じてセヒスムンドの心の状況も、「暗」と「明」の繰り返しが起こる。まず、クラリンのお節介に心が和み「明」へ、しかし、無礼なアストルフォの登場で再び怒りが爆発し「暗」へ、次に、美しいエストゥレーリャの登場で再び心が和み「明」へ、しかし、嫉妬するアストルフォのために楯突こうとする従者2の登場で再び怒り「暗」へ…という具合である。そして、この従者2が、暴君セヒスムンドの最初の犠牲者となり、殺されてしまうと、もはや状況は「暗」一色となる。ここまでは、「暴君」であることにも納得がいくが、問題はこの後の台詞である。早速人殺しを犯した息子を咎めるバシリオに対して、「俺に対して厳しくあたり、自分から遠ざけて俺を惨めな境遇におき、野獣のように育て、怪物のように扱い、俺の死さえ望んだ父親」と、さらに怒りは増す一方のセヒスムンド。この台詞を聞くと、セヒスムンドが言うことも、もっともなことであり、当然の台詞であるように思えるのは私だけであろうか。「お前に命など与えなければ良かった。そうすればお前の声など聞かなくてもすんだ。」と言い返すバシリオ。しかし、命を与えたのは自分だし、人間としてではなく、あくまでも怪物として育てたのは他でもないバシリオ自身である。セヒスムンドは、ただ「育てられたように育っただけ」であって、彼自身が自らの意思で何かをしたわけではないのだ。つまり、「その通り」に育ったからといって、責められる覚えなどないのである。よく「こんな子供に育てた覚えはない」という親の定番の台詞があるが、この場合明らかに「こんなセヒスムンド」に育てたのは父親であるバシリオである。

(4)心理学的に分析するセヒスムンドの人物像-「暴君」であるかをめぐって

心理学的に考えてもセヒスムンドのとった行動や人格は、彼が育ってきた環境を考慮した場合、人間として不思議なことではない。いい機会なので、以下セヒスムンドの行動を心理学的にも分析し、今彼がどの発達段階にあるのか、少し考えてみたい。まず、環境と人格の関係に関しては、レヴィンの人格理論を当てはめて考えられるだろう。ドイツのゲシュタルト心理学者K、レヴィンは、独自の「場の理論」(「行動(B)」が「個人(P)」と「環境(E)」の相互作用に依存して生起するものとする理論であり、彼はB=f(P・E)の式を立てた。)の立場から、人格は環境から孤立した静的なものではなく、常に環境と力学的に関連して働くことを強調した。彼の理論では、発達差、正常―異常の差などが、分化度や境界の硬さなどにより統一的に説明されている。以上のことから、人間が育ってきた環境(勿論遺伝的なものもあるだろうが。)が、人格に与える影響は、少なくとも心理学的には明らかである。また、抑圧された環境の中で、溜まっていたフラストレーションの大きさや、野生化(野獣化)された度合いなどを考慮しても、急に変化した環境にうまく適応できず、反動が起こるのも当然といえるだろう。実際に、フランスの医者イタールが、「アヴェロンの野生児」(1799年にフランスのアヴェロンの森で発見された少年の人間社会への適応過程をまとめたもの)において著したように、人間社会とは断絶された森で育ち、一度野生化された人間が、再び人間社会に適応していくまでには、それなりの時間(イタールは野生児の訓練に6年かかったという)と保護を要するのだということも明らかである。したがって、人殺しは肯定できないが、ある意味ではセヒスムンドが暴君のように振舞ってしまうのも無理はないのだ。このように思ってしまうと、後に続くバシリオの「惨めで哀れな囚われの身から王子の身にしてやっただけでも感謝してしかるべきだ」という台詞などはどうも恩着せがましく聞こえてしまう。自由、生命、そして、名誉を、父親にして、国王から奪われた上、その事実、自分が誰なのかを知ってしまった以上「おとなしく謙虚に、そして寛大に」といわれても、そりゃ無理であろう。実際に、セヒスムンドの「以前は自分が何者かわからなかったからおとなしくしていたのだ。しかし、今は自分が何者かわかった」という台詞がそのことを物語っており興味深い。「今は自分が何者かわかった」という台詞は、エリクソンの理論に当てはめて考えると、「自我同一性」(エリクソンのライフサイクル論の中で展開される、心理-社会的発達の第五期として図式化された概念)の確立を意味しているといえるだろう。この時期には、「自分とは何者なのか」「何処から来たのか」が問われる。したがって、自分が何者かがわかり、自我同一性の確立ができた今、次の段階へと進むべく「自分はこうありたい」と望み、行動したいと思うのは人間としては当然であろう。一方、「以前は何者かわからなかったからおとなしくしていた」という台詞は、まさに、「自我同一性の拡散」(自我同一性の失敗の時期に見られる心理―社会的危機の状態にあること)を意味しているといえるだろう。「自分は何者か」「何をしたいのか」「どんな方向に進めばよいのか」などがわからなくなった状態である。したがって、セヒスムンドはずっと「自我同一性」と「自我同一性の拡散」の葛藤に苦しんでいたのだといえるだろう。生まれて以来、外部との接触を絶たれた環境で孤独に育った、いわゆる心理学的に言う「環境剥奪児」であるセヒスムンドの場合、彼の発達過程は必ずしも、家族や社会との人間社会の中で生きていくものであるという、対人関係を重視したエリクソンの言うような正しい順序では進んでいないし、人生における八つの大きな心理的危機(エリクソンの示す、それぞれの発達段階に応じてクリアすべき課題)も経験していないため、人格や発達状況に少なからず問題があることは確かである。しかし、今まで自分が「何者か」であった経験がないために、「何者か」である自分を想像することさえできなかったセヒスムンドにとってはアイデンティティが形成される重要な瞬間であったといえるだろう。以上のことから、真実を知ったセヒスムンドがとった行動は、育ってきた環境に起因した人間の本能に基づく極めて人間的なものであり、必ずしも「暴君」であるとはいえないのではないかと考える。

(5)心理学的に分析するセヒスムンドの人物像-ロサウラとの出会いをめぐって

以上のように、真実を知り、期待通りに振舞ったことで、責められ、あくまでも「人間」として、激怒していたセヒスムンドであったが、ここで、再びロサウラと出会うことで、「女」の姿をした彼女の美しさに心を癒される。これが二度目の出会いである。彼女の美を称賛する台詞がまた面白い。エストゥレーリャが「星」なら、ロサウラは「太陽」であるとし、エストゥレーリャに仕えているというロサウラに、「星は太陽の光を受けて生きているのであり、美においても勝るロサウラが、美において劣るエストゥレーリャに仕えるのはおかしい」と。さらに、ロサウラの美は、太陽、明星、ダイヤモンド、星、薔薇など、地球上の全ての美の中で、最も美しいとまで称賛する。「女」「星」「太陽」「美」などの表現法も哲学的である。これもカルデロンの特徴であろう。以前とは変わらず、彼女に対しては好意的な「光」のイメージを持ち、これ以上にはない位に彼女の美を賞賛したにも拘らず、「身に余るお言葉でございますが、沈黙が時には雄弁にお答えすることもございます。言葉がかなわぬときには、黙っている者が最上の話し手となりますゆえ」と受け入れられないロサウラ。初めての出会いとは打って変わった態度である。以前は、外見は男装しており、どちらかといえば「闇」のイメージであったが、心は、お互い癒しあい、セヒスムンドに対しても「光」のイメージを持っていた。今回は逆である。外見は美しい女であり、「光」の印象であるが、その心は「闇」のイメージを持っている。さらに「この王国に殿下が犯罪、反逆、報復、殺人の種を撒き散らすであろうという予言は不幸にも当たりました。人間と呼んでも名ばかり、野獣の間に生まれ、傲慢不遜、極悪非道、残酷無比、傍若無人。人であって人でない人に何ができましょうか」とまで言う始末である。しかも、セヒスムンドにとって「何ができましょうか」という台詞は禁句である。従者2をバルコニーからなげたように、どんなことであろうと、意地でもやってみせるからだ。道徳性と理性がまだ充分に発達していないのであろう。(まあ、無理もないが。)したがって彼には、キリスト教の教えというよりかは、まず人間・道徳教育が必要であるといったところであろうか。しかし、「君にはできないよ」といわれたら、意地でもやってやろうと思ってしまう心理は、人間として理解できる。余談であるが、人生における最上の喜びとは、「君にはできない」といわれたことを、やってみせることだ。とおっしゃった先生がいた。人殺しなど、道徳的に反することは肯定できないが、人生における一つの教訓として、心に留めておきたい言葉の一つである。また話が脱線したので、本筋に戻ることにする。せっかくロサウラの美に心が和んでいたのに、彼女の突然の豹変と、自分への攻撃的言動をきっかけに、セヒスムンドは「俺は暴君なのだ。道理などわきまえておらん」という始末である。セヒスムンドは、劇を通して見てもロサウラの美や、彼女に抱いた想いを特別視している印象があることから、ロサウラとは、セヒスムンドにとって大きな影響を与える特別な存在であるように思われる。牢獄で彼女を初めて見たときに、何か一種の「刷り込み」的な作用が少なからず働いたのかもしれない。すなわち、K.Z.ロレンツの「刻印づけ」(インプリンティング)の理論である。孵化後13~16時間の雛鳥に動き回る対象を見せると、たとえ親でなくても、あたかもそれが親であるかのように追いかけ、他のものは一切見むきもしなくなる現象である。これは生後まもない子供に対してのみ言われる理論であるが、クロタルド以外の人間との接触は絶たれ、母親とも分離されて孤独な状況に育ったセヒスムンドにとって、初めて見た「美」(実際は男装した女性美)に対してなんらかの刷り込み的作用が働き、その対象に対して「愛着」を持つようになったとしても、なんら不思議ではないだろう。だとしたら、セヒスムンドを改心させることができるのは、ロサウラであるともいえるし、またその逆に、彼を暴君にするのも彼女であるともいえる。実際、既述したように、彼女の言葉をきっかけに「自分は暴君だ」という「自己像」(自己概念)を形成しているのがわかる。自分が愛着を持ち、心を許した人に、「暴君だ」といわれたら、そりゃ「暴君だ」と思ってしまうだろう。これも、心理学的に根拠がある現象の一つ、すなわち「ピグマリオン効果」である。ある人にとって重要な意味を持つ他者がひそかに抱く期待によって、その人間の能力に変化が生じるというものである。具体的にはある子供の学力が伸びるという期待を教師が持っていた場合、意識的ではないが態度などを通じて、その教師の期待が子供に伝わり子供の自己概念が変容し、意欲がわいてくるといった現象のことである。もちろんその逆のパターンもあるのであり、この場合セヒスムンドが良い例であろう。こうなってしまったらもう、後はただ暴君化していくのみである。「もう少し温厚になれ。すべては夢かもしれないのだから」というクロタルドに対して、「お前にずけずけ言われると無性に腹が立つ。夢か誠かお前を殺して試してやる」と、クロタルドを殺そうとする。ここで、彼を助けようとやってきたアストルフォとの戦いが始まるのである。興味深いのが、この後バシリオがやってきたときの二人の行動の違いである。国王バシリオがやってきたことに敬意を示し、剣を納めるアストルフォと、父バシリオがやってきても、敬意を示すどころか怒りが増す一方のセヒスムンド。対照的な二人の行動には、育ってきた環境の違いが人格に与える影響、あるいは、理性や道徳性の発達状況の違いが如実に反映されていて興味深い。こうして、バシリオの「再び眠りにつくがよい。そして、お前の身に起こったことは全てこの世で良い目をした良い夢だったと思うがよい」という台詞にあるように、セヒスムンドは再び眠らされるのである。

(6)サブプロットにおけるロサウラの復讐のはじまり

再び、アストルフォがエストゥレーリャを口説いている。今度は、どんな口説き方をするのであろうか。「不運を告げる運命はめったに嘘はつかないものです。幸運は定かでなくても不運は確実にやってくるものだから。」そして、「それは自分とセヒスムンドの運命に当てはまる」というアストルフォ。一体どういう意味なのだろうか。ここでは一方で、善行、勝利、称賛、幸運など「光」のイメージを持つアストルフォの運命と、他方で、冷酷、傲慢、不運、殺人という「陰」のイメージを持つセヒスムンドの運命が対比されている。「影」のイメージを持つセヒスムンドの運命は確実に起こるが、「光」のイメージを持つ自分の運命は定かではなく、云々…と続く中、太陽さえもが陰り、大空さえもが粗末なつくりものかと思えてしまうほどの麗しい光を目にしてからは、云々…と、よくわからないが、「光」と「陰」の運命のコントラストを背景に、エストゥレーリャを口説いていることはわかる。遠まわしでまだるっこい口説きであるように思われるが、そんな中にも何か新鮮で、躍動的な印象も感じさせ、また、心というよりは、理性に訴えかけるという意味でも、印象深く、何か惹かれるものがある。これもカルデロンの技法であろう。しかし、やはり前回見た「絵姿」が気にかかり、素直に受け入れられないエストゥレーリャ。しかたなく、絵姿を持ってきてエストゥレーリャの絵姿をはめ込むというアストルフォ。彼が問題の絵姿を取りにいっている間に、侍女ロサウラに絵姿を自分の代わりに受け取るよう頼むエストゥレーリャ。彼女にとっては、恋心ゆえの行動であり、何も悪気はないのであるが、ロサウラにとってみれば、エストゥレーリャに正体がばれ、復讐の相手であるアストルフォにも企みを知られてしまうかもしれない一大事である。わが身に重なる不運を嘆くロサウラ。この場をどうしのぐのであろうか。絵姿を持ってきたアストルフォはすぐにロサウラに気づき、ここで劇におけるサブプロットの要となる二人が始めて対面するのだ。「心は決して嘘はつかぬもの。愛しいロサウラ」というアストルフォの台詞から、家の名誉のためにエストゥレーリャに近づき結果としてロサウラの名誉を傷つけることになったのだが、一方ではまだ彼女を愛していることがわかる。しかし名誉を傷つけられたロサウラの方は違う。あくまでも、復讐のために白を切り、巧みな嘘によってうまくエストゥレーリャを利用し、絵姿を取り戻したロサウラは、この場をなんとか乗り切ることに成功する。つまり彼女の不運は必ずしも重なってはいないのだ。しかし他方では、本当は一つしかない絵姿を持っていかれ、ピンチに立たされ不運な身にあるアストルフォ。結局ロサウラの邪魔によって、エストゥレーリャの信頼も得られず、二人の関係は悪化する。エストゥレーリャに正体がばれずうまく二人の関係を壊し、婚姻を不成立させたことはロサウラにとってはこれ以上にはない喜びであろう。そして、これがロサウラの第一の復讐である。「幸運」と「不運」あるいは「好意」と「嫌悪」などのように、一方が「光」のイメージを持つと他方が「影」を持つという展開となっている。

(7)セヒスムンドが実際に見た「夢」の影響

<第二場:セヒスムンドの塔>

再び鎖で繋がれ床で眠らされているセヒスムンド。ここからが彼が見ている本当の夢である。どんな夢を見ているのであろうか。「暴君を打ち倒してこそ慈しみ深き王子といわれるのだ。クロタルドを殺してやる。親父は俺の足元に口づけをさせてやる。」と、クロタルドを殺し、バシリオを成敗する夢を見ている。ここで目が覚め、再び鎖に繋がれている自分に気づき、全て夢であったと思い込む。つまり、実際に彼が見ていた夢は、ほんの数行の台詞に過ぎない短いものなのだが、この「夢」をきっかけに、現実に起こったことまで全てが夢であったと思ってしまったのである。しかし、頭では夢であると理解していても、心では夢だと認識できていないものもあることに気づく。すなわち、ロサウラに抱いた「気持ち(愛)」である。ここで、セヒスムンドは「夢」をきっかけに人生の意味を悟る。

セヒスムンドが夢から学んだこと

・「人生」の意味

「人生」とは、死んだ時に気づく「夢」であり、人間は皆、それぞれの人生が「夢」であるとは気が付かずに、ただ「生きている」という夢を見ているに過ぎない。つまり、私たちが生まれてから辿ってきた「過去」も「現在」も、そして、これから辿る「未来」も全てが、人間が死ぬまでに見る「人生」という夢なのだと。ただ「夢」だとは気づいていないだけなのであり、そして、死んで始めて、全てが「夢」であったと気づくのである。これが劇において、セヒスムンドが夢から学んだ「人生」の意味であると考える。

「第三幕」

(1)夢を見た後のセヒスムンドの変化

<第一場:セヒスムンドの塔>

兵士がやってきて、バシリオが、予言を恐れてセヒスムンドを監禁し、モスコビア公爵アストルフォに王位を譲ろうとしていること、そして、それを知った国民が異国の王に統治されることを好まず、セヒスムンドを王子として迎えるべく迎えにきているという、現在の状況を伝える。つまり、再び夢でみたこと(実際は現実だが)が、現実でも起ころうとしているのだ。さあ、セヒスムンドはどう行動するのであろうか。「人生は儚い夢だから、もう一度見てやろう。」「国民を、異国の王の奴隷の身分から解放すべく戦う。父に向かって弓を引き、天が示した予言を証してやる。」と。国民とともに、父と戦うことを決意する。ここまでは、以前と同じように父親に対して、暴君として振舞っているようにも見えるが…。「いい思いをしたが、結局は夢であり、目覚めたら全て消えていた」というセヒスムンド。かなりのショックを受けているのがわかる。さらに、そんな彼に対する兵士の「大事の前には常に前触れがあるとか。まずは夢でごらんになられたのでございましょう」という台詞をきっかけに、セヒスムンドは、自分が見た忌まわしい夢は「前触れ」であったことに気づく。そして、ついに、「俺は夢を見ているのだ。正しい行いをしたいのだ。たとえ夢の中でも善行はできる」、さらには「事実であろうと夢であろうと正しいことを行うのが肝心。事実であれば事実であるがゆえに、夢であれば目覚めたときに、親しい友を得るために正しい行いをしておくことだ」と、善行を行いたいという「光」のイメージへと、「心」に大きな変化があったことがわかる。ついに改心したのであろうか。

<第二場:>

クロタルドから、セヒスムンドが反逆を企てていることを知ったバシリオも「馬を引け、この手でばっさり親不孝者を成敗してやる」と、ついに親子の仲は犬猿になる。

(2)セヒスムンドとロサウラの三度目の出会いが持つ意味

<第三場:セヒスムンドの塔>

ここで、セヒスムンドは、再びロサウラと出会う。今回の出会いは彼らにとってどんな出会いで、また劇においてどんな意味があるのだろうか。二回目の出会いでは、セヒスムンドの人格を否定していたロサウラであったが、今回は彼女の方からセヒスムンドを訪れている。どういう風の吹き回しであろうか。何か考えがあってのことに違いないだろう。しかも、一回目の「男装」、二回目の「女性」に続き、今回は長いスカートをはき、短剣と長剣を帯びるという、「男」とも「女」とも呼べるおかしな身なりをしているではないか。なぜ、彼女はこんな格好で、セヒスムンドのもとに来たのであろうか。まず、「男」の身なりで来た理由は四つあるらしい。第一に、セヒスムンドが王冠を取り戻すのにいささかでも力になるため。第二に、セヒスムンドの手勢が援軍を求めば馳せ参じるため。第三に、わが身と刀でセヒスムンドを守るため。第四に、セヒスムンドが「女」としての自分に恋心を抱いたときに、自分の名誉を守るため。一方、「女」の身なりで来た理由は、三つあるらしい。第一に、名誉を回復する手立てを講じてもらうため。第二に、足下に身を投げ出せば不憫に思われると考えたため。第三に、辱めを受け嘆き悲しむ姿を守ってもらうため、だという。何やらセヒスムンドの為に来たと言っているようにも聞こえるが、違うようである。あくまでも自分の復讐のための手段であり、セヒスムンドを味方に付けることが最大の目的であるのだろう。実際に、「庇護の手を差し伸べてもらうために来た」と言っている。「やさしい女として嘆くことはあっても名誉のためなら男として体を張って守り、戦う所存である」と。目的のために「女」を武器にはするが、名誉は「男」として守るという彼女の心は、「女」(光)ではなく、むしろ「男」(闇)としてあるのであり、もはや「復讐」しか見えていないのである。女の名誉というものがどんなに重い意味を持つものなのか改めて痛感させられる。彼女は他にも自分の不幸な身の上を話し、セヒスムンドにとっても利益となる話をするなど、あらゆる手段を講じていることから、かなり目的に対する執着心もあるようである。そんなロサウラを見て、セヒスムンドはなぜか喜びをかみしめる。そして、現在、自分の手中にあるロサウラ(実際、ロサウラにはそんな気はないのだが)の勇気と信頼を踏みにじり、彼女の名誉を奪うことで、「夢」である現在において、短く、今しかない人生の「喜び」を味わおうか、どうかの葛藤が起こる。この時点で、自分の「欲望(情欲)」が見られることから、まだ人生における「儚い喜び」を追い求めようという気持ちが少なからずあることがわかる。つまり、まだ完全に改心したとはいえないのである。しかし、この後の「悟ったぞ」という一言で、彼は人生における本当の「喜び」が何なのかに気づくのだ。したがって、本当の意味での改心はここから始まるのだと考える。実際に、それを悟ることによって、ロサウラに抱いた情欲を抑え、彼女の名誉を守り、恥辱を雪ぐことを決意している。つまり、ここで本当の意味での改心を遂げたのである。したがって、セヒスムンドを改心へと導いたのは、やはりそのきっかけを与えたという意味で、ロサウラの存在が大きかったのではないかと考える。こうして、彼女のためにも戦うことによって、セヒスムンド(ロサウラ)はバシリオ側(クロタルド、アストルフォなど)との戦いに勝利する。したがって、ここでサブプロットにおける要であった、ロサウラの復讐も果たされたことになる。一方、合戦から逃げてきたバシリオは、予言が当たったわが身の不幸を嘆き「神が死ねと思し召されたら死ぬのみ」と、半ばやけくそ状態で、宿命の通りセヒスムンドの足下にひれ伏している。しかし、これこそが、天から下ったバシリオへの裁きであったのだ。こうならないように備えた結果、こうなったのである。つまり、彼は天に打ち勝とうとしたが、天に打ち勝つ術を誤ったのである。もはや、万事休すとしか言いようがない状況のバシリオであるが、幸いにもセヒスムンドはすでに、改心し、理性や分別も弁えている。 こうして、セヒスムンドは父の手をとり、忠義を持つことで宿命に打ち勝つことができたのである。そして最後には、セヒスムンドとエストゥレーリャ、アストルフォとロサウラがそれぞれ結ばれ、大団円に終わる。以上のことから、セヒスムンドとロサウラの三回目の出会いは、セヒスムンドにとっては、改心のきっかけとなったことで、宿命に打ち勝つことへの原動力となり、ロサウラにとっても、復讐を果たすことができたという意味では、彼らにとって人生における大きな意味のある転機であったといえる。また劇においても、メインプロットとサブプロットにおける最も重要な問題となっていたことに対する解決が図られるという意味では、不可欠な要素であったといえるだろう。最後に、劇の展開の分析を通して、最大の関心としていた二つの問題に対する自分なりの答えを以下に記すことによって、結論を試みることにする。

最後に

セヒスムンドが夢から学んだこと

・人生の意味(既述したので省略する)

・人生における「喜び」の二つの概念

本書の分析を通して、人間が死ぬまでに見る「人生という夢」の中における「喜び」、すなわち、人間の「人生における喜び」とは、以下の二つの概念があるのだと考える。

1、人間にとって最も大切で、たとえ死んだ時(人生という夢から覚める時)であっても消えることはない、「永遠なる喜び」。すなわち、愛、名誉、忠義、誇り、正義などである。この喜びを得るためには、正しい行い(善行)をすることが大切である。例えば、セヒスムンドが改心後に行ったものとして、①ロサウラの名誉を回復し、彼女に「命」と「名誉」を与えたこと。②父親への忠義を持ったこと。これによって、運命に勝利しただけではなく、再びバシリオの息子として生まれ変わり、名誉や誇りなどの永遠の幸福を手に入れることができた。③エストゥレーリャの愛をも手に入れ、結婚という、名誉に関わる幸福をもつかんだ。以上が、「人生という夢」の中で掴む「永遠の喜び」であると考える。そして、この生前の「喜び」を前提(条件)として、死んだ後、すなわち「人生という夢」から目覚めた後に得られる「永遠の喜び」、それこそが、キリスト教徒にとっては他でもない究極の喜び、すなわち「神からの魂の救済」なのであろう。

2、人間にとって、虚しいもので、死んだ時(人生という夢から覚める時)に、一瞬にして消えてしまう、「一時の儚い幻のような喜び」。すなわち、権力、栄光、王冠などである。これこそが、セヒスムンドが身をもって学んだ、人生における儚い喜びであろう。この喜びを得るためには、善行というよりは、悪行を重ねることが挙げられる。例えば、セヒスムンドが、改心前に行ったものとして、①理性が働かず本能のままに行動し、②他人の名誉を奪い、③傍若無人に振る舞ったことなどがある。これらによって、一時の儚い喜びは得られたが、目が覚め、夢であると気づいたときには全てが泡のように消えてしまい、思いもよらぬ「痛手」を被ってしまったのである。これが、人生という夢の中で見る「儚い幻の喜び」であり、この、悪行の代償とも言える「喜び」を前提として、死んだ後、すなわち、「人生という夢」から覚めた時に、天国どころか地獄に落とされ、魂の救済を得ることもできないのであろう。

宿命に打ち勝つ方法

不幸な運命も、避けては通れない人間の「人生」の一部なのであり、災いはあらかじめ備えることで防ぐことなどできない。不幸な運命を予言し未然に防ぐ。そんなことができるほどの力を人間は持っていないからだ。例えば、劇においては、バシリオの運命が挙げられる。息子セヒスムンドは恐ろしい暴君であるという、天の予言を鵜呑みにし、そうならないように未然に防ごうとして彼を幽閉した上に、人間としてではなく「野獣」として育てた結果、皮肉にもそのとおりに育ってしまい、結局は、セヒスムンドの足下にひれ伏すという、天の裁きを受けたバシリオ。では、宿命に打ち勝つにはどうしたらよいのか。それは、劇におけるセヒスムンドの最後の運命が証明していることである。すなわち、運命の定める災いからは逃れられないが、災いが起こった後に、「理性」と「分別」があれば、その人間の思慮深い判断と行動次第では阻止することはできるのであるということである。例えば、罪を犯す者は、あらかじめそれを防ぐことは困難であるが、肝心なのは犯した後の行動であり、罪を後悔し、赦しを得るべく神に救いを求めれば、救われるというように。だからこそ、災いが起こらないように備えるのではなく、起こった後にどう行動するか、慎重に、冷静に考えることが大切なのだと伝えているであろう。実際に、クロタルドのこんな台詞があった。「キリスト教徒なら宿命の残忍さをかわす術はないと断言はいたしません。術はございます。思慮分別を弁えた人なら宿命に打ち勝つことはできるのです。」と。だとしたら、これもある意味では、神を愛し、「善行」を想起するように仕向ける、キリスト教的な教えであるようにも思われる。

 ” La vie est un songe ” のテーマ

劇の分析を通して、カルデロンが伝えていること( ” La vie est un songe ” のテーマ)とは、以下のものであると考える。すなわち、タイトルのとおりであるが、「人生は儚く短い夢」だということである。だからこそ、一時の幸せを味わうために、儚い幻(権力や栄光)を追いかけ、他人の名誉を奪い悪行を重ねるよりかは、もっと大切な、永遠なるもの(愛、名誉、忠義、誇りなど)を追い求め、正しい行い(善行)をするように努めることが大切なのだということ。そうすれば、人生という夢から覚めた時、すなわち、死んだ後に行われる、最後の審判において、神による魂の救済を得て、天国に行けるという、「永遠の栄光」を手に入れることができるのだというキリスト教の教えなのかもしれない。以上のことから、いかにキリスト教徒にとって、この世における「善行」の大切さ、そして、あの世における永遠の栄光、すなわち「魂の救済」という概念が重要視されているのかが伺われるだろう。

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