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フアン・ルイス「よき愛の書」に学ぶ司祭の教えー「狂った愛」に付随する8つの大罪と武器とは

フアン・ルイス「よき愛の書」Juan Ruiz”Libro de Buen Amor” (1330)は、聖職者である主人公イータの司祭が、『神への愛』(精神)と『女への愛=肉欲』(肉体)との間で葛藤するも、結局のところは、聖職者としての立場から『女への愛』(=書における「狂った愛」)を戒め、『神への愛』(=書における「よき愛」)を肯定する。そして、書を読む全ての人々が(キリスト教徒としての神への敬虔な「よき愛」ではなく)世俗の愛、すなわち「狂った(男女の)愛」に走り、結果としてその愛に付随する大罪を犯して自滅することのないように、(「よき愛」を選ぶべく)教え導くという内容。

しかし、「よき愛の書」を分析した後に、同時代に書かれたドン・フアン・マヌエル「ルカノール伯爵」を読み、両者の比較を通して分析することによって(※)、以上のような単純な本書の解釈は、司祭の単なる表面的なタテマエにすぎず、実際のところ彼は、(「よき愛の書」において多くのたとえ話を駆使し、美辞麗句などによってわざとその内容を曖昧にすることによって、読者の明快な理解を“故意的に”困難にしている、あるいは、聖職者であるにも拘わらず「世俗の(男女の)愛」を肯定する記述も所々に見られることなどから)、本音としては、すんなりと「神への愛」を選ぶことには少なからず迷いがあり、未だもって「女への愛=肉欲」に対する未練・執着を持っているのであり、したがって、必ずしも全面的に「よき愛」を肯定し、「狂った愛」を否定しているとはいえないのではないか(=聖職者としてはあるまじき行為)という結論に至った。

ただ、個人的には上記のような解釈を結論づけたものの、本書としては、著者である司祭自体が、“何が正しくて、何が間違っているのか(つまり、なにが「よき愛」で、なにが「狂った愛」なのか、ということ)“などに関しては、はっきりと断言しておらず、その最終的な判断は、(今回自分自身が結論づけたように)読者の価値観に委ねるという、まったくもって曖昧なものでもあるため、当然のことながら読者の価値観や考え方が異なれば、結局なにが「よき愛」で、なにが「狂った愛」なのか、という根本的な解釈自体が多様なものとなる可能性を持つものであるということだけは強調しておきたい。また、以上のような意味で、本書は(読者に対して)「開かれた作品」ともいえるため、曖昧ではあるものの個人的には、こうした”解釈の自由さ“が本書の面白いところではないかと考えている。

はじめに

“Libro de Buen Amor” (以下「よき愛の書」)の作者とされるフアン・ルイスは、聖職者でありながら、書の随所で自らの恋愛遍歴を語り、あろうことか、あらゆる恋愛術までも教えている。また、その一方で、神や聖母マリアへの賛歌など、宗教的な抒情詩なども交え、聖職者として、神への信仰心の強さも見せている。こうした「奇書」とも呼べる作品の中で、司祭は以下のように語りかけている。「よき愛の確かな手がかりが得られる箇所を見つけ、そこに込められた意味を見抜きなさい。また、美辞麗句で語られた、詩行の中にどのような意味が込められているのか、考えなさい」と??そもそも、司祭が言う、「愛」とは何なのか。書では以下の二つの愛がテーマとして語られている。「よき愛」と「狂った愛」??

問題設定

(1)「よき愛」および「狂った愛」とはどのような愛なのか。また、なぜ「よき」愛、「狂った」愛なのか。
(2)司祭は、なぜ「よき愛の書」を編纂したのか。本書を通して、読者に何を教え、悟らせているのか。
(3)キリスト教における愛とは。
(4)なぜ「よき恋の書」ではなく「よき愛の書」なのか。また、その妥当性は。

「愛」の美点と欠点ー愛に付随する8つの大罪

司祭は作品の中で、愛とはどのようなものであると言っているか。まず、愛の美点とは、たとえ成就しなくても、女を愛し、懸命の努力をすることだけで喜びになるもの、あるいは、どんな男でも立派にしてしまうという、人間を変える力を持つもの。一方、愛の欠点に関しては、「恋は盲目」といわれるように、時に何がよいのか悪いのか、物事の分別がつかなくなるという、外見と中身が一致しない、嘘つきなもの、あるいは、愛には8つの大罪がつきまとい、時に人を滅ぼしてしまう危険なもの。などと言っている。では、人が愛することによって犯してしまう8つの大罪とはどんなものなのか。書におけるいくつかのたとえ話の分析から、以下のような解釈に至った。

第一に、強欲の罪がある。愛ゆえに、人を欲張りにする罪である。相手の愛を得るため、欲張り、自分ができないような約束をしてしまったために、盗みをはたらくなど、神が定める戒律や法律を破るという罪を犯し、自分自身の魂を苦しめ、結局は心身ともに滅びることになるのである。

第二に、傲慢(高慢)の罪がある。愛ゆえに人を傲慢にする罪である。もともとは善良なものでも、愛によって引き起こされる傲慢さのために、神への畏れを失い、愛する人のために悪行をはたらかせ、犯した罪を償うべく死刑という罰を受けることになり、結局は自らの身を滅ぼすことになるのである。

第三に、吝嗇の罪がある。愛ゆえに、人を吝嗇にする罪である。巨万の富を持っているにもかかわらず、自分よりも貧しい者に、その少しでも分け与えようとはせず、他人に対する愛を持たない者は、他人からも愛されず、結局はぼろぼろに傷ついて滅びることになるのである。

第四に、邪淫(肉欲)の罪がある。愛には、他者を思いやり、大切に思う愛情や、男女間の相手を慕う愛情意外にも、異性への性的な欲望である愛欲も含まれる。この愛欲のために人が犯してしまう罪が、邪淫である。一時の愛欲のために誘惑に負けてしまった者は、欲望が満たされるとたちまち後悔の念に襲われ、結局は自らの身を滅ぼすことになるのである。

第五に、嫉妬の罪がある。愛ゆえに、愛する者の自分以外の者に対する行動ひとつひとつに敏感になり、嫉妬から妬みの心が生まれ、それが怒りに変わり、さらに攻撃へとなって罪を犯し、結局は相手だけではなく、自らの身をも滅ぼすことになるのである。

第六に、大食の罪がある。節度をわきまえない、(大量の肉やぶどう酒など)大食のために、人は理性を失うことによって、(愛欲が暴走し、邪淫の罪を犯すなど)罪を犯し、結局は自らの身を滅ぼすことになるのである。

第七に、虚栄の罪がある。愛ゆえに、何か思い通りにならないことがあると、激怒し、あるいは、自分を実際よりもよく見せようとうわべだけを飾ろうとする罪である。この罪によって、人々は恨み、殺しあうことによって、結局は相手だけではなく、自分自身をも滅ぼすことになるのである。そして

第八に、愛ゆえに人を怠惰にする、怠惰の罪がある。

以上のことから、愛とは、美点がある一方で、(時に愛ゆえに犯してしまうあらゆる罪によって人を滅ぼし、地獄へと落としてしまう危険性を伴うという)欠点もある、善と悪の二つの要素を持つものであるといえる。そして、こうした愛の罠に陥った人々は、(愛につきまとう)あらゆる大罪を犯し、ついにはわが身を滅ぼしてしまうことになるのである。したがって、本書において司祭がいう、「狂った愛」とは、聖職者であるという立場でありながら、自らも陥ってしまった「狂おしい(男女の)愛」であるといえるだろう。まず、この「狂った愛」について考えてみたい。

「狂った愛」とは

「狂った愛」に走りこの愛につきまとう大罪を犯してしまうのはどんな人であるといっているのか。これに関して司祭は以下のようなものをあげている。

①あらゆる人に内在する(誰も罪からは逃れることはできないのだという)人間本来の弱さに負ける者。
②よき理性を失っているため、善悪の判断ができない者。
③記憶が、よき理性によって教化されていないため、貧しく、善悪の判断だけではなく、善そのものを思い浮かべることができない者。
④善より悪、善行よりも罪に傾くという、人間の本性によるもの。など。

以上の要素を持った人々が肉体と魂からあらゆる善を奪いとられることによって、狂った愛に走り、大罪を犯し、心身ともに滅ぼされてしまうのだという。では、もし、うっかりと「狂った愛」に走ってしまった場合、その愛につきまとう大罪を犯さず、わが身を護るためにはどうしたらよいのか。司祭はどのようなことを教えているのか。司祭は、聖職者としての立場から、そして、聖職者でありながら「狂った愛」に走り罪を犯してしまった経験者として、以下のことを教えている。

①常に慈悲の行いに励み、日ごろから善行を積むこと。
②常に憐れみの心を持って施しをし、徳を忘れないこと。
③あらゆる大罪の根源(親玉)である、三つの悪(肉体・悪魔・俗世)に対して、肉体には「断食」、悪魔には「祈り」、そして、俗世には「慈悲の心」をもって勇敢に挑むこと。
④三つの悪(肉体・悪魔・俗世)から生まれるあらゆる大罪(子孫)に対して、武器(七つの秘蹟を含む)を携えることによって武装し、身を護ること。

「狂った愛」につきまとう8つの大罪に対する武器

では、武器(七つの秘蹟を含む)とはどのようなものなのか。自分なりの解釈(本書のテキストより分析)として、司祭は以下のようなものを教えていると考える。

強欲の罪には「鎖帷子(=英知と正義)」。強欲に打ち勝つには、英知を身につけ、何が正義で、何が悪なのかを理解し、狂気を認識することが大切であり、また強欲の罪には、罪を洗い清めるなど、「洗礼」の秘蹟によって、打ち勝つことができるということ。

傲慢の罪には「剣(=畏敬心・中庸・誠実さ・抑制・慈悲)」。傲慢に打ち勝つには、常に謙虚に話し、神と神の威厳への畏敬心を持ち、中庸・誠実・抑制といった徳を備え、貧しい人には慈悲の心を持って接することが大切であり、また、傲慢の罪には、(神への信仰心を強め、神を畏れ、それらを確認するなど)「堅信」の秘蹟を通して、打ち勝つことができるということ。

吝嗇の罪には「大槌(=憐れみの心・謙虚さ)」。吝嗇に打ち勝つためには、常に憐れみの心を持ち、貧しい貧窮を自らの痛みとして、公平に施しを与え、そして、謙虚さを持つことが大切であり、また、吝嗇の罪には(憐れみの心を持ち、貧しい孤児の娘を聖職者に嫁がせるなど)「叙階」の秘蹟を基盤とすることによって、打ち勝つことができるということ。

邪淫の罪には「上腕甲(=純潔・良心・不屈の精神力)」と「腿当て・脛当て(秘蹟)」。邪淫に打ち勝つためには、物事の道理をわきまえ、善悪の価値観を判断する理性と、慈悲の心を持ち、憤怒がもたらす被害を認識し、さらに、忍耐力と希望を持って、常に穏やかな調和を求めつつ神への懺悔を行うなど)「告解」の秘蹟を通して打ち勝つことができるということ。

憤怒の罪には「兜(=理性・慈悲の心・忍耐力・希望)」。憤怒に打ち勝つためには、物事の道理をわきまえ、善悪の価値観を判断する理性と、慈悲の心を持ち、憤怒がもたらす被害を認識し、さらに、忍耐力と希望を持って常に穏やかに振舞うことが大切であり、また、憤怒の罪には(誹謗を憎み、人々との穏やかな調和を求めつつ、神への懺悔を行うなど)「告解」の秘蹟を通して打ち勝つことができるということ。

大食の罪には「鎧の喉当て(=節食・断食)」。大食に打ち勝つためには、英知に満ちた精神によって、食物を摂取する際の適量を知り、貧しき人々に分け与えるなどの節食、または、断食に努めることが大切であり、また大食の罪には、(あらゆる食物のかわりにパンとぶどう酒を摂取することで、常に主を記憶に留め、信仰を保ち、神にお仕えするなど)「聖体」の秘蹟を通して、打ち勝つことができるということ。

嫉妬の罪には「盾(=憐れみ・慈悲)」。嫉妬に打ち勝つためには、神の御名において、常に他者に対して憐れみの心をもち、たゆみない慈悲を施し、決して他人のものを欲しがる、あるいは、他人のように振る舞い、自らを偽ることのないようにすることが大切であり、また、嫉妬の罪には(重い病で苦しむ者のため、あるいは、自らの罪の赦しを願い、額に聖油を塗るなど)「塗油」の秘蹟を通して打ち勝つことができるということ。

怠惰の罪には「槍(=祈り・善行)と槍の穂先(=慈悲の行為)」。怠惰に打ち勝つためには、まず巡礼に出て、怠ることなく祈りを捧げること、そして、神を愛し、常に神への愛を心に留め、救済を得るためにあらゆる善行を積むことが大切であるということ。

以上のように、司祭は、「狂った愛」につきまとうあらゆる大罪から身を護る術として、「人間にとって、善であり、必要とされるあらゆる資質(武器)」と「目には見えない神とのつながりを、目に見える形で執り行う儀式(七つの秘蹟)」でもって、自らを武装することの大切さを教えているのではないかと考える。キリスト教にとって、神への信仰、高徳や善行、そして、汚れのない清らかな人間性が、いかに大切なものなのか、さらに、神とのつながりを強固にすることによって受けることができる恩恵がどんなに大きなものなのか、ということを考えさせられる興味深い教えである。

以上、俗に言う「男女の愛」を「狂った愛」であると捉え、(本書において司祭が教える「狂った愛」に関して)①『「狂った愛」に走り、罪を犯す人』、そして、②『「狂った愛」に付きまとう大罪から身を護る術』という二つの観点からまとめた。こうした教えから人々は英知を得て、善悪を理解し、よき理性が働くことによってその価値観を判断し、救われるのであろう。これが、司祭が書を通して多くの人々に教え、悟らせている特に重要な教えのひとつであると考える。実際、司祭は以下のように言っている。『万人が心の準備を整え、一部の者たちが狂おしい愛を求めてめぐらすさまざまな策、そして、「狂った愛」に付きまとうあらゆる危険から、よりよく身を護れるようにすることが、「よき愛の書」を編纂した第一の理由である』と。では、一方で、書において司祭が意味するところの「よき愛」とはどのような愛なのであろうか。タイトルにもなっているくらいだから、おそらく、彼にとって深い、特別な意味があるのであろう。次は、この「よき愛」について考究することにする。

「よき愛」の分析

「狂った愛」に走らず(あるいは、一度うっかりと「狂った愛」に走ってしまったが、既述した教えを実践し、あらゆる大罪に打ち勝つことによって)、「よき愛」を選んだ人々は、どのような恩恵をうけることができるのであろうか。まず、「よき愛」を選んだ人々がどのような人であり、また、なぜ彼らは「狂った愛」に走らなかったのか、ということについて考えてみることにする。これに関して、司祭は、以下のようなことを書の随所(自らの自伝的物語における司祭の求愛をことごとく断る婦人たちの態度や、それにまつわる寓話など)で教えている。

具体的に、「狂った愛」に走ることなく、結局は「よき愛」を選ぶ人々とは、

① 理性によって、何が善で何が悪なのか、価値観の判断ができる者。
② よき理性が働き、「狂った愛」を選ぶことによって、自分がどんな危険にさらされるのかを理解している者。
③ 神を愛し、畏れる者。
④ 人間にとって必要とされる、魂に関わる三つの要素、すなわち、英知・記憶・意志を兼ね備えている者(上述した三つにも当てはまる)。など

要するに、人間にとって必要な三つの要素(英知・記憶・意志)を兼ね備えている人々が「よき愛」を選び、真実の道を歩むことになるというのである。では、真実の道とはどのような道なのであろうか。まず、大切なのが上述した三つの要素(英知・記憶・意志)である。真実の道の入り口に入る前に、最初の関門としてあるのが、「三つの要素の(魂への)働きかけ」である。この働きがなければ真実の道を歩むことができないどころかその入り口にさえ入ることができないのだ。三つの要素はそれぞれ以下のような作用を持ち魂に働きかけるという。

①「英知」は、魂に働きかけることによって、人々に善を理解し、悪を知らせる。したがって、「英知」を得た人々は、よき理性が働き、次第に神を畏れるようになるのだという。
②(よき理性によって教化された)「記憶」は、魂に働きかけることによって、人々に善を愛し、悪を憎ませる。
③「意思」は、魂に働きかけることによって、人々に(よき理性によって判断された)善と悪、どちらを選ぶべきなのか判断させる。ここで、善を選んだ人々が「よき愛」を選ぶ人々であるといえる。

以上のように、三つの要素(英知・記憶・意志)によって導かれた「魂」が、「狂った愛」ではなく、「よき愛」を選ぶのである。言い換えれば、人(魂)が、二つの愛の葛藤において、「狂った愛」という罪過を払いのけることによって、「よき愛」を選択し、真実の道を辿るためには、三つの要素(英知・記憶・意志)が十分に備わり、それが「魂」に対してよく機能することが、前提としてあるのである。そして、ここ(人々が「よき愛」を選んだ地点)が、人間の「魂」が辿る真実の入り口であり、同時に、スタート地点であるということになるのだ。では、「よき愛」を選び、真実の道への入り口に立った人々は、次にどうするべきなのか。司祭は、以下のように言う。『よき愛を選び、それを愛するならば、「よき愛」を常に心に留めようとして人々は善行を積むようになる。そして、その善行に応じて、主が人間一人ひとりに報いを与えるのだ』と。つまり、「よき愛」を選んだ人々は、善行によって救われるというのだ。したがって、「よき愛」を選んだ人々が、真実の道を(「神からの救済」という目的地に向けて)歩む過程において、次に辿る道は「肉体への善行を積む」ということになるのであり、そして「肉体の善行を積むこと」を経てようやく、(真実の道の)目的地である「神からの(魂の)救済」にたどり着くことができるのである。ここで、書において司祭が教えている「魂が救済されるのは、清らかな肉体においてである」という意味が理解でき、また同時に「よき愛」がどのような愛なのか、ということをも理解し納得できるだろう。つまり「よき愛」とは、神からの救済という目的地(人間の生涯における終着点)に向けて人々(魂)が辿る真実の道への入り口であり、また同時に、神の救済を得るための条件であるともいえるのだ。そして「神の救済を得る」ということは、また「神の愛を得る」ということでもある。

では、「神の愛を得る」ためには、どうしたらよいのだろうか。これに関して司祭は、書において以下のようなことを教えている。神の愛を得るために忘れてはならない重要な条件とは、「神を愛する」ということ、そして、その上で「善行を積むこと」である。神は、神を愛し、善行を積む者にこそ、救いの手を差し伸べてくれるのだという。したがって、以上のことから、「よき愛」とは、神の愛を得る(=救済を得る)ために、神を愛すること(=救済を得る条件)、すなわち、「神への愛」であるといえるだろう。そして、人々は、「よき愛」(=神への愛)を選び、神を愛し、善行を積む(=神の愛を得る)ことによって、魂の救済を受け、楽園の栄光へと導かれるのである。こうして、人々は、書における「愛の教え」を通して、英知を与えられ、善悪を悟らされて初めて、真の愛、すなわち、「よき愛」とはなんなのか、ということに気がつき、また同時に、「狂った愛」(=狂わしい男女の愛)がどんなに悪であるのかを知り、忌み嫌うようになっていくのであろう。ちなみに、上述した全ての司祭の教えのなかで、興味深いのは、「よき愛」を選び、善行を積んだ人々がどのような恩恵を受けることができるのか、ということである。この恩恵とは、上述した「神からの魂の救済」のことを意味する。では、具体的に、キリスト教における「神からの魂の救済」とは、どのような救済なのであろうか。これに関して、司祭は、書の中で以下のことを教えている。(「よき愛」を選び、善行を積む者は)最後の審判でイエスに呼ばれ、救われるのだと。最後の審判は、新約聖書唯一の黙示文学であるヨハネの黙示録(終末がくると、イエス・キリストによる最後の審判が始まり、すべての人々は肉体を持って蘇り、天国に行くか、それとも地獄に行くか振り分けられるという文書)において、語られる。当時、王国の滅亡、バビロン捕囚、民族離反という悲惨な歴史の中で、ユダヤ人たち(初期のキリスト教徒)は、イエスが(やがて到来すると)語ったという、(実際はなかなか訪れない)神の国の到来を期待しながら迫害に耐えていたという。これが現在もいき続いているキリスト教徒の終末思想(やがてこの世は神の手で滅ぼされ、永遠の楽園である神の国がやってくるのだという思想)であり、ヨハネの黙示録は終末思想を支え、そして、キリスト教徒の心の支えともなっている重要な文書であるとされる。以上のことから、キリスト教における「神からの魂の救済」とは、「死後(魂が)地獄に落ちることなく天国で永遠の命を得ること」をいうのだということがわかる。これも司祭が書で教えている「よき愛」の手がかりの一つであると考える。

上述したすべての「よき愛」の教えから、人々は、神の存在がどんなに大きいものであり、いかにして善悪を判断し、「よき愛」を選ぶのか、そして、神を愛し、善行を積むことによってどんな恩恵を受け、どのようにして救われるのか、という「よき愛」にまつわるあらゆることを悟ることによって、その教えを実践し、結果として、神の救済を得ることができるのであろう。そして、これが、司祭が書を通して多くの人々に教え、悟らせている特に重要な教えのひとつであり、「よき愛の書」を編纂した真の意図であると考える。実際司祭は以下のように言っている。「あらゆる善行のはじまりと基盤はカトリック信仰であり、また、あらゆる人々に善行を想起するようにしむけ、良俗のお手本を引き合いに出すことにより救済を得られるように教え戒めることが書を編纂した第二の理由である」と。

「よき愛」および「狂った愛」

最初に設定した問題(1)と(2)の答えとして、改めて、司祭がいう「よき愛」と「狂った愛」について、まとめておくことにする。まず、「よき愛」とは、人間にとって必要とされる三つの要素(英知・記憶・意志)を兼ね備え、よき理性でもって善悪の価値観を判断できる思慮深さをもち、神を畏れ、愛する者が選ぶ「神への神聖なる愛」であり、また同時に、この愛を選び、善行を積んだ者だけが神の愛を得て、救済を得ることができるのであるという意味で、「人間にとって善であり、大きな恩恵をもたらす愛」であるともいえる。したがって「よき」愛なのであろう。そして、司祭は、聖職者としての立場から「よき愛」のあらゆる善を教え、多くの人々に、どんな愛が「よき愛」なのか、そして、その愛がどのような恩恵をもたらすのかを悟らせることで、理性でもって善(=「よき愛」を判断させ、真実の道を辿り、神の救済という究極の恩恵を受けることができるように仕向けることを第一の目的として書を編纂したのだといえる。一方、「狂った愛」とは、人間にとって必要とされる三つの要素や、あらゆる資質が欠如しているため、よき理性が働かず、物事の価値判断ができない思慮の浅い者、あるいは、理性というよりも、本能にしたがって、欲望の赴くままに生きる者が選ぶ「世俗の愛、つまり、狂おしい男女の愛」であり、また同時に、この愛を選んだ者は、神にそむくことになり、神の愛を得るどころか怒りを招き、さらに、あらゆる大罪を犯すことによって、ついには、わが身を滅ぼしてしまうという意味で「人間にとって悪であり災いをもたらす愛」であるといえる。したがって「狂った」愛なのであろう。そして司祭は(聖職者でありながらも)「狂った愛」に走り、罪を犯したことで地獄に落とされた(投獄された)経験者としての立場から、「狂った愛」のあらゆる悪を教え、多くの人々に、どんな愛が「狂った愛」なのかを悟らせ、また、人々がその愛につきまとうあらゆる危険(大罪など)から身を護ることができるように、そして、自らの悲惨な経験を教訓として、何をすべきで、何をすべきではないのかを学び一人でも多くの人々が改心し神の救済を得ることができるように仕向けることを第二の目的として書を編纂したといえるのではないかと考える。

キリスト教における愛とは

「愛」とはなにか。キリスト教の「愛」とはどのように違うのか。愛は、英語でlove。しかし、新訳聖書が書かれたギリシア語には、英語のloveに相当する言葉がいくつもある。たとえば、男女の愛は「エロス」、友人への愛は「ピリア」、親子の愛は「ストルゲー」という。こうしたことから、「愛」はキリスト教における重要なキーワードとなっているといえるだろう。キリスト教における愛とは、どんな愛なのだろうか。まず、書では、どのような愛があるか、いくつかのたとえ話を生理すると、主に以下のようなものがあることがわかる。

①異性(司祭が愛した女性など)への愛
②友人(取りなし婆さんなど)への愛
③自分への愛
④他人(書を読む多くの人々を含めた見ず知らずの人など)への愛
⑤神への愛、神の愛 など

私たちが俗にいう愛として特にあげるなら、男女の愛、親子(家族)の愛、友情などがある。こうした世俗の愛に特徴的なのは「条件がある」ということである。たとえば、男女の愛なら「相手が魅力的だから、相手が好みのタイプだから」など、親子の愛なら「自分を産み育ててくれたから、血がつながっているから」などのように。上述した①②③の愛もこうした世俗の愛に含まれるといえる。では、④⑤の愛はどのような愛なのか。これらこそが、キリスト教における愛の特徴であり、世俗の愛との決定的な違いであると考える。このキリスト教における愛について考えてみることにする。キリスト教において特徴的な愛として、第一に(既述した④の)「他人への愛(隣人愛)」がある。イエスは以下のように言っている。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあるだろうか(マタイ、五章)」

「隣人を自分のことのように愛しなさい(マタイ22章)」

「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい(ルカ、27章)」

と。つまり人間の状態がどのようなものであれ(恋人や家族、友人でなくても)他人(隣人)を愛することを教えているのだ。以上のことからキリスト教における愛は、世俗の愛と比較して「条件がない」という特徴を持っているということがいえる。そしてこの「条件のない」隣人愛をギリシア語で「アガペー」という。

さらに、キリスト教において特徴的な愛として、第二に(既述した⑤の)「神への愛、神の愛」があり、これが最も重要とされる掟である。イエスは、以下のように言っている。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(マタイ、22章)」

と。つまり、神を愛することを教えているのである。これが書においける司祭の最も重要な教えである「よき愛」すなわち「神への愛」である。では、一方で「神の愛」とはどういう愛なのか。聖書では、以下のことを教えている。

「神が独り子キリストをおつかわしになられたところに愛がある。神がまず私たちを愛してくださった(ヨハネ、四章)

と。つまり、神が人間の罪(原罪)を償う生け贄として、神の御子イエスをこの世に遣わせたところに愛があり、まず神が(人間すべてを)愛してくれているのだということを教えているのだ。要するに、人間は誰もが神の愛を無条件に得ているということがいえるのだ。ただし、神の救いを受けることができるかどうかはまた別の問題であり、それは人間次第であると教えているのであろう。司祭が書において教えているのも同じことである。つまり、神の(条件のない無償の)愛にこたえ、「神を愛する(=「よき愛」を選ぶ)者、そして、善行を積む者だけが、神の救済を受けることができるということである。こうしたことからも「よき愛」を選ぶこと(=神を愛すること)がどんなに人間にとって大切なことなのか、そして、それが全ての出発点なのだという、司祭の教えの意味が理解できるだろう。以上のことから、キリスト教における「愛」とは、「隣人を対象とした愛」、そして「神を対象とした愛」という二つの条件のない愛があるのだということがわかる。

『よき愛の書』が「よき恋」ではなく「よき愛」である理由とは

「恋」と「愛」の違いから考えてみたい。まず「恋」とはどんなものなのか。ちなみに英語で「恋」とは「愛」と同様にloveであり日本語に特有なものであるようだ。「恋」とは、書の内容も含めて以下のようなものであると考える。

①基本的に(同性もあるが)、異性に対して抱く愛情。書における司祭の貴婦人たちへの愛情のような、男女間の相手を慕う情である。彼(彼女)に「恋をする」とは言うが、家族に「恋する」、友人に「恋する」とはいわない、基本的に異性に対して成立する感情である。

②どちらかといえば相手よりも自分のほうを大事に思うもの。書における「狂った愛」に走り大罪を犯してしまう人のように相手に対する想いが強いばかりに、時に周りが目に入らなくなり自分の思い通りにいかないことがあると、あるいは、想いを寄せる相手が自分以外の者に好意を見せる時などに生じる嫉妬や妬みなどによって相手や周りの人々を傷つけてしまうこともある。このように比較的相手というよりかはまず自分の気持ちを大事に思うものが(微妙であるが)恋ではないかと考える。

一方、「愛」とはどのようなものなのだろうか。書の内容も含めて、以下のようなものであると考える。

①人間だけではなく、あらゆる対象に対して抱く、「恋」よりも広く重い意味をもつ愛情。(書の随所にさまざまな形の愛が見られるように)対象が、異性のみではなく、家族や友人、自分、他人などの人間への愛、また、人間だけではなく、動物への愛、さらに、善や平和などといった無生物、そして、神という超自然的なものまで、あらゆる対象に対して使われ、色々な形のある感情であり、「恋」にくらべて「愛」はより広い意味を持つものであると考える。また、「彼(彼女)を愛している」と「彼(彼女)に恋している」とでは、前者の方が比較的重く、深い感情であるような印象を受けることから、「恋」に比べて「愛」は(少なくとも日本語では)より重い意味を持つものであると考える。

②自分のことだけではなく相手のことも自分と同じようにあるいは自分以上に大切に思え相手の幸せを願ってあらゆる善へと導いてあげられること。司祭が書を編纂した意図にもあるように、自分自身の悲惨な経験や他人の失敗などからの教訓を基に相手が自分のような失敗を起こして自分自身を破滅へと追い込まないようにはからい、そして相手の幸せを願ってあらゆる善へと導いてあげる、相手への思いやりの感情であると考える。

③一方的に与え尽くすことに喜びを感じ、見返りを求めないもの。書において司祭が愛の美点に関して言っているように、たとえ、想いを寄せる相手が振り向いてくれなくても、自分が誰かを好きになり、その人のためにあらゆる努力をし尽くすことを喜びとする一方的な見返りを求めない感情であると考える。

以上のように、「恋」と「愛」とを区別して考え比較してみると、書には「恋」の要素もあるし、また「愛」の要素も含まれているということがわかる。それなのになぜ「よき愛の書」なのか。もう一度よく見てみると、一つだけ(「よき愛の書」と「よき恋の書」とをわける)決定的なものがあることに気づく。それは、既述したように「よき愛の書」の中には、異性への愛だけではなくそのほかの多くの対象(友人への愛、他人への愛、神への愛など)に向けられた、あらゆる形の愛が溢れているからであり、また「よき愛の書」自体が、書を読む多くの人々(=他人)の幸せを願って、善へと導くべくして書かれた、司祭による(よき)「愛」の書であるからだ。したがって、書の日本語のタイトルは「よき恋の書」ではなく「よき愛の書」で妥当であると考える。

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【福沢諭吉に学ぶ】学問・勉強をすすめる理由8選ー勉強で身に付く13の武器とは

福沢諭吉「学問のすすめ」 『なぜ勉強をすることが大切なのか』 人によって、色々な答え(人生や価値観など)があると思いますが、学問の大…

「ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯」に学ぶピカレスク小説の特徴と面白さ

主人公ラサロは、トルメス川の岸辺にある水車小屋で水車番をし、粉をひくのを生業とする父トメ・ゴンサーレスと母アントーナ・ペレスの息子と…

文章&書く力を鍛える方法7選【論文・レポート・英作文など】

ブログやSNSなどを通して、個人が自由に発信できる機会も増えたので、「文章力を身につけたい」と思っている人は多いと思います。私自身も、英語で…

カルデロン・デ・ラ・バルカ「人生は夢」多角的考察

スペイン黄金世紀の劇作家カルデロンの劇「人生は夢」 ”La vida es sueño" の展開を分析していく過程で以下の問題について考えて…

フェルナンド・デ・ロハス「ラ・セレスティーナ」の悲喜劇

『カルメン』のカルメンといい、『女王フアナ』のフアナといい、『マルティナは海』のマルティナといい、映画や文学におけるスペイン女性の描かれ方は…

「ヌマンシアの包囲」考察〜セルバンテスの視点から見るヌマンシア戦争の意味

「ドン・キ・ホーテ」でも有名な、劇作家セルバンテスの「ヌマンシアの包囲」は、紀元前2世紀に、古代イベリア半島の小さな都市ヌマンシア市民が、大…

「ルカノール伯爵」と「よき愛の書」比較論ー二つの作品の中世的面白さ

フアン・ルイス「よき愛の書」を読み、さらにその後に、ドン・フアン・マヌエル「ルカノール伯爵」を読むことで、前者を読んだ時点では見えな…

【頭が良い人の言動とは?】「英検・TOEIC不要論」や「〇〇は無駄/無意味」という議論に思う”知性と教養”

勉強や勉強法等に関して、ネット上では 「資格試験(特に英検やTOEIC)は無意味」 「ノートを作る/書くのは無駄」 「英単語帳…

文学に見るエル・シドと『他者』との関係-作者の視点から見る主従関係のあり方

Ⅰ、はじめに 1043年、ブルゴスに生まれた武将エル・シド(本名はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール)は、スペインにおけるレコンキスタ…

19世紀イギリスの社会と女性〜ハーディ「ダーバヴィル家のテス」に見るヴィクトリア朝時代の光と影

原作は、ヴィクトリア朝時代(後期)の文豪であるトーマス・ハーディの名作「ダーバヴィル家のテス―純情な乙女」(Tess of the d'Ur…

19世紀イギリスの社会と学校教育―民衆教育遅滞の原因に関する考察【大英帝国の栄光の礎と影】

I. 近代化過程におけるイギリスの教育 イギリスは世界でいち早く市民革命、産業革命を経験し、近代化を進めた。しかし、その一方では、教育の近…

「わがシッドの歌」の面白さーレコンキスタの英雄シッドの強さと魅力

「わがシッドの歌」("Cantar de mio Cid")を読み、シドをはじめ物語の登場人物や人間関係、そしてその外部に広がる歴史的背景に…

【世界の教育格差】メキシコの初等教育普及過程における苦難とその影響ー日本との比較から考察

メキシコにおける初等教育普及は、近代化を進める手段として1910年のメキシコ革命以来の課題であったが、実際、その歩みは日本などと比べて遅々と…

効果的な世界史勉強法12選【英語学習で必要な知識・教養】ノートで紹介

世界史の必要性 私は、英語の学び直しと同時に、世界史の学び直しも始めたのですが、(英検1級の勉強をする中で)改めて痛感したことが、英語学習…

【学問•勉強編】2021年の抱負「学業専念」

あけましておめでとうございます。謹んで新年のお慶びを申し上げます。 2021年が、皆様にとって健康で実りの多い、素晴らしい一年…

「スペイン幻想小説」に見る幻想2選ーロマン主義の思想、特徴とその魅力

ロマン主義時代の二つの作品、ホセ・デ・エスプロンセダの「義足」と、フアン・バレラの「人形」における幻想を分析していく過程で、カルデロン以降の…

賢王アルフォンソ10世「聖母マリア頌歌集」考察―カンティーガに見る聖母マリアイメージ

カンティーガ(Cantiga)とは、中世のイベリア半島における単旋律の歌曲(頌歌)である。ヨーロッパに広がる聖母マリアにまつわる伝説を基にし…

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