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文学に見るエル・シドと『他者』との関係-作者の視点から見る主従関係のあり方

Ⅰ、はじめに

1043年、ブルゴスに生まれた武将エル・シド(本名はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール)は、スペインにおけるレコンキスタの英雄として歴史的に有名な人物である。ちなみに、「エル・シド」とは、(後に詳述するが)ミオ・シド・デ・コンプ・ドール(わが君主)を縮めて、呼ばれるようになったものである。シドは、フェルナンド1世の御代に若き騎士として活躍を始め、20代で、カスティーリャ国王サンチョ1世に仕え戦場を駆け巡り、さらに、レコンキスタ(国土回復戦争)の歴史におけるレオンとカスティーリャの王アルフォンソ6世(在位1072-1109)の家臣としても臣従していた。

しかし、彼は、主君であるアルフォンソにより二度にわたるカスティーリャ追放命令を受ける。そして、その後は一人ではなく、常に『他者』とともに生き、戦場を駆け巡り、数々の戦争における勝利を重ね、レコンキスタにおいて多大なる貢献をした人物として有名である。以上のように、現代においてはレコンキスタの英雄(中世の騎士)として有名であるが、当時においては田舎から出てきた一介の騎士に過ぎず、したがって彼にまつわる武勲の全てを克明に記述する人物さえも存在せず、彼に関する年代記はほとんど書き残されてはいなかった。しかし、唯一残された書物がある。すなわち、「ロドリーゴ伝」というラテン語で書かれた残文記録である。そして、この史料をもとにしてシドを描いたとされるのが、スペイン最古の英雄叙事詩「わがシドの歌」である。ちなみに、この作品の創作年代については諸説があるが、作者についてはいまだもって不詳であり今後も明らかになることはないと思われている。一人の人物の創作になるものか、それとも複数の作者がいたのかも定かではない。写本の末尾に残されている「ペール・アバット、1207年5月」の記載にしても、はたして作者と創作年代を記したものなのか、それとも書き写した人物とその年代にすぎないのか不明である。しかし現在においてはメディナセリのある吟遊詩人が戦いに明け暮れる騎士たちの武勲をスペイン語の原型ともいうべきカスティーリャ語で歌ったのだとする説が有力となっている。それを誰かが書き留めておいてくれたのである。

この貴重な「文学」を史料とし、(今現在残されている「ロドリーゴ伝」に基づく)史実との比較を通して作品を分析する過程で、英雄エル・シドや、彼が生きた時代背景(レコンキスタ)、そして、作品の特徴や面白さに関して述べつつ、“文学的な潤色を持つ部分”と、それを取り除いた“事実としての部分”を区別することによって、人物のみならず歴史的背景も踏まえ、作品に反映されたものがいかなる「リアリズム」なのかを検討し、実際のエル・シドが、『他者』(今回は、とくに「主君」および「臣下」に着目する)とどのような関係(今回は、とくに「主従関係」に焦点をあてる)を築き、生きていたのか、そして、そこにはどのような営み・意味があったのかを、当時を生きていた人々(作者=不祥)の視点から考察(イメージとして具現化)したい。

問題設定

(1)エル・シドとは歴史的にどのような人物で、彼はどのような時代を生きていたのか。
「史実」との比較から「文学」を分析する過程で、「史実」と「文学」両面からその人物像、および、彼が生きていた時代背景(レコンキスタ)を捉える。
(2)シドを中心に、彼を取り巻く人々『他者』(主君と臣下)との関係はどのようなものであったのか。
「史実」との比較から「文学」を分析する過程で、「史実」と「文学」両面において、両者の関係はいかなるもので、そこにはどのような営み、あるいは、意味があったのかを考察する。
(3)当時を生きた『他者』(作者=不詳)は、シドと彼の周りの『他者』をどのような目で見ていたのか。
「史実」と「文学」の比較を通して明らかになった、以上の全ての知見をもとに考察する。
(4)「わがシドの歌」(史実をもとにした文学作品)の面白さとは。

Ⅱ、エル・シドをめぐって-「史実」と「文学」におけるその人物像と時代背景

シドと『他者』との関係に関して考察する前に、まず史実と比較しつつ物語の内容(興味深い特徴)を分析する過程で、英雄エル・シドの人物像と、その歴史的背景に関する概要を述べておきたい。この物語は、当時のスペイン事情、つまり、レコンキスタ(イベリア半島における支配権の争奪戦)を背景に描いており、ストーリーを読み進めていくことによって、シドを中心として、それ(レコンキスタ)がどのように、行われていったのか、という過程を具体的にイメージして見ることができる。物語の特徴としてまず興味深いのは、既述したように、史実を基に書かれているということである。主人公のシド、彼の従臣アルバル・ファーニェス、そして国王のアルフォンソ6世などの登場人物やその人間関係、シドの故郷ビバールや彼の攻略地バレンシアなどの地理名を含め、多くの具体的象徴の存在がある。そして、物語はアルフォンソ王によるカスティーリャ追放直後から始まり、後の彼の軌跡を辿るという形で展開されている。以上のように、シドがアルフォンソによってカスティーリャを追放された、そして、追放後は、冒頭で述べたように、一人ではなく『他者』とともに戦場を駆け巡ったという設定もまた事実に基づくことである。では、具体的に『他者』とは、どのような人々を指すのであろうか。これに関しては、とくにロドリーゴに付き従うキリスト教徒(騎士)たち、あるいは、サラゴサのイスラム王ムタディルなどが挙げられる。このように、シドは、自分に付き従う多数の武将を養わなければならなかった。そして、そのためには、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、宗教に関わらず自分の武力を少しでも好条件で買ってくれるほうへ身を寄せたのである。つまり、シドはただひたすらキリスト教徒世界を守る為、イスラム軍を敵に回して奪戦する信仰厚き愛国の武将ではなかったのである。そして、「史実」においても「物語」においても同様に、シドは彼らとともに「敵」と戦い勝利をおさめていくのである。では、シドの「敵」とは具体的にどのような人々を指すのであろうか。これに関しては、必ずしもイスラム教徒だけではなく、キリスト教徒も存在していたということが挙げられる。たとえば、シドが援軍するイスラム王ムタディルの敵である、バルセロナ伯ベレンゲールが挙げられ、実際にシドは彼を捕虜にしている。また、二度目の追放後には、主君であるアルフォンソ6世とも戦っている。ちなみに、こうしたキリスト教徒同士の争いは、何もシドだけの例にとどまらない。

まず、ここで物語に関して興味深い特徴を一つ述べると、史実と物語の比較において、両者にギャップが見られるということである。とくにギャップを感じるのが、史実にある暗黒面が、物語においては比較的描かれていないということである。一般的に、レコンキスタは、(物語にあるように)キリスト教を正義、イスラム教を悪として捉え、いわば、キリスト教に対する「敵」であるイスラム教との勢力争奪戦として見られがちだが、実際にその背景には、支配権をめぐりアルフォンソ達兄弟が争うという、キリスト教同士、つまりは、「味方」同士の争いも存在するのである。 また(余談であるが)、スペインにおいて、このような味方同士の争いは内戦時代にも見られる。内戦当時、フランコ率いる反乱軍側に対する共和国側の内部では、戦争優先派と、戦争ではなく社会革命の積み重ねによる社会主義の実現を求める革命優先派との間で対立が生じていたのだ。これには、フランコ側も面白がって見ていたという。本来は「敵」に向かうはずのエネルギーが「味方」にも向けられ、それどころか敵以上に憎くなるという人間の憎悪感情の恐ろしさ。スペイン内戦時代の反ファシスト側の敗北の根本的な原因が、ここ(共和国陣営内部での戦争優先派と革命優先派の対立)にあり、そして、その後のフランコ独裁による悲惨な日々が始まるのだと考えるならば、このような味方同士の争いは、スペインにおける暗黒時代の入り口とも言えるほど恐ろしいことに思える。そして、以上のことは、レコンキスタの背景として史実にも見られる「キリスト教同士の争い」についても同じことがいえるだろう。しかし、文学作品である以上、フィクションだと言ってしまえばそれまでだが)そのような暗い、裏の部分は、物語において描かれていない。 かなり話が脱線したので本筋に戻ると、以上のように、レコンキスタにおけるシド(およびキリスト教徒軍)の「敵」には、イスラム教(モーロ人)のみならず、本来ならば「味方」であるべきキリスト教徒も存在していたのである。

さらに、物語の特徴として興味深いのは、シドなど登場人物たちによる“キリスト教精神”が頻繁に反映されているということである。例えば、本書における英雄エル・シドは、繰り返し戦いなどにおいて困窮にあれば、

「御栄えある聖母マリアよ、その力もて我を救いたまえ!」

といった類のマリア信仰を見せている。勿論マリアだけではなく、(合戦後の勝利など)ことあるごとに

「天地を統べたまう主よ、感謝したてまつる!」

「創造主に感謝を捧げよう!」

などと、主キリストに対する敬虔な祈りを捧げる姿も随所にちりばめられている。以上のように、すべてを神の思し召しと感じて感謝を捧げる(キリストやマリアへの)「祈り」だけでなく、ほかにも、たとえば出撃の前にはシドの部隊に従軍している(剛勇の戦士でもある)司祭ドン・ペドロが、三位一体のミサを執り行い、全員がこれに与る、あるいは、シドの夢の中に大天使ガブリエルが現れるなどなど、なんらかのキリスト教的な教えを意味すると考えられる場面は作品の中には繰り返し見られている。以上のことから、シドは、たとえイスラム教徒(ムダディル)と手を組んで戦場を巡ることはあれども、やはり、根本的な面ではキリスト教徒としての篤い信仰心を持つ、敬虔な人物であることも伺われる。スペインは言わずと知れたカトリック大国なだけに、作品(とくにの中世の文学)の随所において、登場人物たちによるキリスト教徒としての「厚い信仰心」が見られるのは自然なことであろう。これも、言うまでもなく史実に基づくことである。

さらに挙げておきたい物語の特徴として、シドの強さが強調されているということが興味深い。物語を一読して気がつくのが、シドをはじめ、彼に従う臣下たちが戦いにおいて負けることはなく、それどころか、戦う前の言葉には、必ず勝つという余裕さえも感じられるということである。このシドの強さ、つまり、武勇に優れていたということも史実に基づくことである。これは傭兵として自己を少しでも高く売りつけるために不可欠の条件であった。そして、彼らの強さは当時のカスティーリャの強さをそのまま象徴しているとも言えるだろう。実際、当時のアルフォンソ率いるカスティーリャは、強力な軍事力でもってアル・アンダルス諸侯(イベリア半島におけるイスラム教勢力が支配する地域)を圧迫し、ついにはレコンキスタにとって決定的なものとなるトレドを奪い取るという、巨大な強さを持っていたとされる。史実において興味深いのは、かつてこの強力なカスティーリャの王であり、イベリア半島最強の王とまで言われていたアルフォンソを凌ぐ勢力が存在していたということである。つまり、当時最も勢いが盛んであったとされる北アフリカの大帝国ムラービト朝のユスフであり、彼の強さは群を抜くものであったという。

しかし、このユスフも、物語の中ではその強さも存在さえもそれほど強調されておらず、シドの敵ではないというくらいにあっさりと蹴散らされてしまうのである。実際に、史実においてこの二人が直接戦った事実はないとされるが、当時のムラービト軍に対抗し、バレンシアを維持できるのは、他でもない、シドだけであったという。つまり、シドはそれほど強いのである。こうしてイスラム諸国を転戦するうちに次第にその武勇が広まり、イスラム兵の間から讃嘆の念を込めていつしかアラビア語の尊称サイード(Sayiid)をもって呼ばれるようになった。それがシディ(Sidi)に訛り、そしてスペイン語に入ってシド(Cid)となったのである。イスラム世界で敬意を込めてシドと呼ばれていたロドリーゴがキリスト教世界へもどったとき、付き従う家臣たちはそのままの尊称を呼んでシドと綽名したのだという。やや話が脱線したので本筋に戻る。さらに面白いのは、以上のように強くて勇敢なシドとは対照的に描かれているカリオン公子兄弟の存在である。身分の差を武器に口では大きなことを言うが、いざ戦いの場に出て、敵を前にすると怯んでしまう弱さ、ライオンが逃げ出したと聞くや否や血相を変えて隠れてしまう臆病さ、過去に自分が受けた恥辱をいつまでも忘れずに根に持つ執念深さ、そしてそれをシドの娘たちを半殺しにするという不正を働くことによって仕返しをする幼稚さ、自分達がよかれと思ってしたことが全て裏目に出てしまう皮肉さなど、一つひとつ挙げれば切りがないが、こうした彼らの弱さや間抜けさ、卑怯な態度を多角的に、そして、シドとは全く対照的に描くことによって、逆にシドの強さや徳の高さをさらに際立たせる効果をもたらせているというのが面白い。

以上、史実との比較を通して物語における興味深い特徴の分析をする過程で、英雄シドの人物像や、彼が生きた時代背景、すなわち、レコンキスタがシドを中心としてどのように行われていったのか(シドは誰と共に生き、誰を相手に戦い、レコンキスタにおいてどのような勝利をおさめ貢献したのかなど)、という英雄シドにまつわる歴史的概要を述べ、また、それらが「文学」においてどのように描かれているのかを述べてきた。しかし、これだけでは、シドと、そして彼と共に生きていた人々との人間関係までは明らかではない。そこで、以下、さらに引き続き「文学」を史料として、「史実」との比較から分析する中で、シドと『他者』(ここでは主君と臣下)との間に見える“主従関係”がどのようなものであり、そこにはどのような営み、そして、意味があったのか、考えてみたい。

Ⅲ、文学に見るエル・シドと『他者』との関係-作者の視点から見る主従関係のあり方

(1)主君アルフォンソとの関係-『主君』との主従関係のあり方に関する考察

以上のように、史実に基づいたいくつかの特徴があるが、必ずしも全て事実ではなくそこになんらかの虚構が仕組まれているということが本作品の面白いところでもある。特に、物語と史実との比較においてさらにギャップを感じつつも興味を引かれるのは、国王アルフォンソとシドの間の主従関係のあり方である。史実では、追放を命じたアルフォンソのシドに対する扱いのひどさが記述されている。たとえば、追放後も自分にとって都合のいい時にのみシドを許し、必要がなくなれば再び追放するといった具合である。この理由についても、いくつか指摘されている。中でも有力と思われるのは、アルフォンソのシドに対する嫉妬によるものだという説である。史実によると、アルフォンソの自尊心の高さは、相当なものであったとされている。(シドは二度目の追放後、主君であるアルフォンソとも戦ったとされるのだが)かつて自分が戦いにおいてシドに負かされたこと、あるいは、セビーリャをはじめとするシドの数々の戦いにおける大勝利などを考慮すると、アルフォンソがシドに対して嫉妬していたということにも納得できる。相当、シドの存在によってプライドを傷つけられていたのだろう。実際、これらが最初の追放につながったという説がある。以上のことから、実際のアルフォンソは、義理・人情に薄く、シドに対する愛情にも欠けていたように思われる。一方、シドは、酷い扱いを受けながらも最後までアルフォンソに対する許しを求めたとされるが、心中においては、アルフォンソに対してあまりいい感情をもっていなかったとされる。その背景には、シドが養い親として慕っていた、かつてのカスティーリャ王サンチョの暗殺事件(1072)があり、シドはその疑惑をアルフォンソに対して抱いていたという見方があるのだ。結果として、このことがアルフォンソの不興をこうむり最初の追放に至ったとする説もある。また、やがてアルフォンソの許しを得て、シドはカスティーリャへ戻るのであるが、再びアルフォンソの怒りをかい追放される。こうして、シドはアルフォンソにより二度にわたるカスティーリャ追放命令を出されるわけである。

ちなみに、そのアルフォンソによるシド追放の理由に関しては諸説があるのだが、実際の「追放理由」が何であったのかは未だ不明である。とはいえ、上述したように、支配権をめぐってキリスト教同士が争い、その結果としてサンチョが何者かによって暗殺され、そして、後の国王がアルフォンソであったことなどを考慮すると、やはりアルフォンソがサンチョ暗殺に何らかの関わりを持っていたのだと思わずにはいられない。したがって、以上の意味では、シドが(アルフォンソをサンチョ暗殺に関わる人物として)疑うのも無理はないだろうし、また、「シドのアルフォンソに対する(サンチョ暗殺の)嫌疑」が、(アルフォンソの)「追放理由」であるという可能性はあるだろう。つまり、いずれにせよ史実におけるシドとアルフォンソの関係は決してよいものであったとはいえないのである。しかし、物語において、このような裏の部分は、またしても描かれていない。冒頭で、王の怒りを恐れて追放を命じられビバールを出て行こうとするシドに対して、救いの手を差し伸べたり、声をかけるのを憚る人々の様子が書かれている。特にこの直後に九つくらいの少女がシッドに話した言葉が印象深い。彼女がおずおずと潜り戸を押し開いて上目づかいに述べる口上には、

「おお、めでたきシド・カンペアドール!警護の数もいかめしく昨夜、厳重に封印された勅書がとどきました。どのようにあろうともあなた様をお泊めするわけにはまいりません。さもなければ財産、家屋敷を失い、そのうえ眼をつぶされるのです。」

と。つまり、「国王陛下の命によってあなた様をお泊めすることはできません」とのことである。彼女の言葉が示しているように、ここでシドを助けることは国王アルフォンソの命令に背くと同時に、自分達の命さえも奪われてしまうことを意味するのである。以上のような人々の様子から、国王アルフォンソの存在、権威が、彼らにとってどんなに大きいものであったのか、推測できる。この場面に反映されているように、物語におけるアルフォンソは、史実のとおりの権威的で酷薄な国王としての要素も有している。したがって、少なくともここまでは、史実と物語のアルフォンソは人格的にはそれほど大きな相違はないという印象をうける。しかし、物語全体の印象としてみた場合、アルフォンソによるシドの扱いや、その主従関係のあり方においては史実の通りではない。物語のアルフォンソは、シドを追放するが、その後のシドの活躍を心から喜び、その栄誉を讃え、追放により離れ離れになっていた妻と娘との再会を、そして、結局はシドのことも赦し、その意思を尊重しつつシドにとって名誉となるカリオン公子兄弟と娘たちとの結婚を勧め、最後までシッドを臣下として信頼する、という人間味のある温かい主君としての一面も描かれているのである。

一方、シドも追放後、一貫して王への忠誠心を持ち続け、主君であるアルフォンソの寵愛を回復すべく勝利を重ね、必ずその戦利品を献上するというひたむきな姿が認められ、アルフォンソからの寵愛を徐々に回復し、さらには娘の結婚に関して父としては渋る気持ちがあるものの、王の厚意に感謝し、大切な娘たちの結婚を王に委託するなど、その意思を最大限に尊重する忠実で篤実な臣下として描かれている。つまり、二人はお互いに心から信頼し、お互いの意思を尊重しあう、よい主従関係にあるものとして描かれているのである。このような意味で、二人の関係は、記述したレコンキスタにおける暗黒面(キリスト教同士の争いなど)同様に、物語において美化されているという印象をうける。それどころか、アルフォンソが国王になる過程さえも描かれてはいないのである。

(2)ふたりの腹心との関係-『臣下』との主従関係のあり方に関する考察

興味深い特徴として次に挙げておきたいのが、この作品がシドという英雄の武勇伝であるにも拘わらず、物語のクライマックスを飾る最後の決闘において、主人公シドが直接戦わないということである。ここで、もしシド本人が戦っていたとしても、それはそれで面白いが、英雄の武勇伝としては型にはまった典型的なパターンであるようにも思え(言い切れないが)、個人的に何か物足りなさを感じる。以上の意味では、カリオン公子兄弟たち上級貴族を、シドではなく、その臣下たち下級貴族が打ち負かすという設定は、私たち読者にとって画期的であり、またシドではないという意外さが、この場面を盛り上げている要素の一つでもあり、最後の場面としてふさわしい展開であったように思える。具体的に、シドではなく臣下たちが戦うことの妥当性を挙げると、第一にシドが戦っていなくても臣下たち一人ひとりがシドに忠誠を誓い、彼の想いも汲んで三人が心を一つにして戦うことで、依然としてシドの存在感は大きいということ。第二に、臣下たちが勝つことによって、裁判において暴露したことが真実であるということを立証し、カリオン公子兄弟たちに非があるということを認めさせると同時に、彼らよりもシドがどんなに優れているのかを認めさせることができるということ。第三に、実力があるにも拘わらず下級貴族として不当な扱いを受けてきた、これまでの思いを晴らし、実力でもってその強さを証明する、いわば、下克上の機会となること。そして第四に、臣下の強さや勝利は、それがそのまま彼らの主君であるシドの強さや勝利をも意味することになるのだということ、などがあるだろう。こうした意味で、臣下たちは、主君であるシドの面目を保つ為にも、誰一人として負けられないのであり、また勝つことによって、主君であるシドへの忠誠心がどれほど大きなものであるかを、ここで改めて示すこともできるのである。一方、シドはシドで、臣下に思いを託し、心から彼らを信頼して戦いを見守っている。もし、心から彼らに信頼を寄せていなければ、大切な娘たちを侮辱されたことに対する復讐を、わざわざ臣下に託すまでもなく、シド自身が戦い、彼自身の手でその復讐を果たすであろう。しかし、シドは戦わない。ここが、シドの臣下に対する信頼の強さを最も反映している場面であるように思われる。つまり、最後の決闘場面において、シドではなく、彼の臣下が戦い、圧勝することは、三人の臣下の勝利にとどまらず、シド個人としての、そして、シドをはじめとする下級貴族全体の、上級貴族に対する完全なる大勝利に繋がると同時に、シドと臣下との間にある強い主従関係のあり方を改めて確認できるという意味で、深い感動をよび、内容がさらに深まり面白さが増すのだと考える。また、この場面に見られる、下級貴族が上級貴族に打ち勝つという設定からも察せられるように、この物語は、作者を含め当時の人々の階級社会に対する批判が風刺的に描かれている点でも注目に値するだろう。以上のように、物語においては、シドと臣下との間の関係もすばらしく、良いものであると思われる。しかし、史実におけるシドは、約定を平然と破り、神の館たる教会を土足で踏みにじって略奪の火を放ち、部下(臣下)を養い自らを肥やす戦利品にしか興味のない残酷非道な武将であったとされているため、そうした物語におけるシドと臣下との主従関係のあり方に関しても、主君アルフォンソとの関係同様に、やはり若干美化されている印象を受ける。こうした、物語における人間関係の美化や、人間の憎悪感情の醜さ、恐ろしさなどといった暗黒面の欠如からは、作者を含めて当時の人々が何を重んじ、何を美しいものとしていたのか、ということを考えさせられる。また、以上のような意味でこの作品は、史実と虚構がうまく融合され、当時の人々の思想がよく反映されているともいえるだろう。

Ⅳ、おわりに

以上、「史実」との比較を通して、「物語」におけるいくつかの特徴と、その興味深い点を分析していく過程で、両者の共通点(「史実」と「物語」の符合点)としては、(シドという英雄の存在、彼と共に生きた主君アルフォンソや臣下たちの存在、レコンキスタの過程で見られるアルフォンソによるシドの追放や地理的事実、北アフリカのムラービト朝の王ユスフの存在や彼との戦いおよびその勝利、キリスト教徒同士あるいはイスラム教徒との勢力争奪戦などの)歴史的事実や、(武勇、高徳さ、キリスト教徒としての信仰心の厚さなど)シドのすばらしい人物像が挙げられる。一方、相違点としては、今回のテーマとしていたシドと『他者』との関係、すなわち、シドと主君(アルフォンソ)や臣下との主従関係のあり方が挙げられ、そうしたことから、「史実」とは異なる「虚構」を分析し、そのような情報操作には作者によるどのような意図があったのかを検討することによって、シドと、そして彼と共に生きた『他者』(すなわち、主君であるアルフォンソ6世と家臣である二人の従者)が、「実際は」どのような主従関係のもとにあったのかということ、および、シドと『他者』を、当時を生きていた人々(作者=吟遊詩人たち?)がどのような目で見て、どのような人物像、そして、人間関係(主従関係)を理想としていたのか、という、シドとともに当時を生きていた(と考えられる)作者の視点から見た、「英雄シド」そして「シドと共に生きた人々」との間に垣間見られる、一連の人間関係(主従関係)のあり方を、「史実」と「文学」両面から述べてきた。

改めてまとめると、当時、シドと、彼とともに生きた主君や臣下、両者がお互いを『他者』として認識し、ともに生きていく上で間にあったものは、すなわち『信頼』、『忠義』、そして、『名誉』であるといえるだろう。主君に対しては、(内心は別として)失った「名誉」を回復し、許しを得るべく戦場を駆け巡り勝利を重ね、そして、必ず戦利品を献上する(ちなみに、史実におけるシドも、物語同様に、後にアルフォンソの許しを得ている)。臣下に対しては、(内心は別として)彼らを養いつつ、「信頼」を寄せ、主君アルフォンソからの許しを得て「名誉」を挽回すべく共に戦場を駆け巡り戦い、そして、勝利をおさめる。一方の臣下たちも、シドを「信頼」し、権威的な王アルフォンソによりカスティーリャ追放命令を出されたにも拘わらず、主君シドの「名誉」を回復すべく、自らの命を犠牲にしてまでも、共にどこまでも付き従い、戦う。主君と臣下のいずれにせよ、彼らの主従関係は、 「信頼」を基盤としているのはいうまでもなく、その間には、“主君に対する”確固とした「忠誠心」、「忠義」が見られるのである。そして、その結果として得ることになるのが、“主君の”「名誉」であり、それがさらに自らの「名誉」にも繋がっていくのである。以上のことから、シドであれ、彼の臣下であれ、当時を生きていた彼ら騎士たちにとって、重要な意味を持つ(主従関係にある)『他者』と生きていくうえで最も大切で、意味のあるものとしていたのは、主君に対する「信頼」、「忠義」、そして、「名誉」であるといえるのではないかと考える。
史実と物語を比べることは、作者が実際の人物やその背景をどのように捉え、何を伝えようとして作品を書いたのか、ということを考えるよい視点を与えてくれる。実際に、その過程において、様々なことが伝わる。当時の社会状況や、人々の生活に始まり、主人公シドの人間性や生き様、つまり、シドのあらゆる面での強さや、主君や臣下との主従関係のあり方、歴史上における影響力の大きさなど、要するに、シドという英雄の存在自体であり、そして、その背景に見える作者や当時の人々の思想である。以上のようにして、当時を知らない私たちが、現代において物語を読み、シドや彼が生きた時代背景を知ると同時に、作者を含め当時の人々が何を考え、何を美しいと思って生きていたのか、ということなどをも知ることができるということが、こうした史実を基にした文学作品の面白さであると考える。以上のような意味で、文学作品には必ず、それがもつ意味があり、一つひとつ分析していく中で様々なことを知り、文学を通して、主人公やその背景に生きた人々の思いを、現代に生きる私たちが共有できるということがものすごくすばらしいことに思える。そして、これが文学の面白さでもある。

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