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ティルソ・デ・モリーナ「セビーリャの色事師と石の招客」考察〜ドン・フアン文学の原点を辿る〜

最も大切なものである操を守り続ける超一流の美女たち(四人)。そして、その大切なものを奪って逃げる色事師(超一流のプレイボーイ・ぺテン師)ドン・フアン。不幸な女たちの、失った後に気づく操の大切さ、後悔、絶望、怒りなど、とくに二番目の女(気位・プライドの高さでいっても超一流の美女)漁師娘のティスベアの描き方(騙され方)がすごい。

本書の登場人物ドン・フアン・テノーリオが生まれたのは1625(?)年、生みの親が本書の作者とされる劇作家ティルソ・デ・モリーナである。つまり、ドン・フアンは、実在の人物ではなく「セビーリャの色事師と石の招客」の主人公であり、この作品が、現在世界中で200を優に超えるという、いわゆるドン・フアン文学の原点なのである。しかも、ドン・フアンは、文学だけに限らず、演劇、音楽などにも素材を提供し、多くの人々に支持されている(特に、ジョニー・デップの映画が有名)。

そこで、ドン・フアンと他の登場人物、特に四人の女との関わりを中心に、劇の展開を見ていく中で、それぞれの人物像を分析し、また、観客(読者)としての立場からも劇のあらゆる効果や、その面白さを述べつつ、以下の二点の問題について考えてみたい。

問題設定

(1) ドン・フアンが多くの人々に支持される理由とは。
(2) 当時の女たちが求めた「名誉」とは。

物語は三幕から成り、主人公ドン・フアンと、その犠牲者である四人の女達との絡み、そして、石像による復讐という構成である。第一幕では、ドン・フアンと二人の女(イサベラ公爵夫人と漁師娘ティスベア)とのエピソードが中心となっている。セビーリャ生まれのドン・フアンは、ある貴族の娘の名誉を汚し、スペインを追われナポリ王国に行くが、そこでも色事師ぶりを十二分に発揮する。劇はここ(ナポリ)から始まり、ドン・フアンの一人目の犠牲者となるのが、美しいイサベラ(公爵夫人)である。

一人目の女:イサベラ公爵夫人 (ナポリ)

ドン・フアンは、イサベラとどのように関わったのであろうか。ドン・フアンは、夜の暗闇の中、イサベラの恋人オクタビオ公爵になりすまして彼女を騙し、ついには操をも奪うことに成功する。しかし、別れ際に明かりを灯したことで相手が恋人オクタビオ公爵ではなかったことに気づきショックを受けたイサベラは、「ああ、万事休す」とだけ言い残して退場する。短い台詞であるが、もはや全ておしまいだという彼女の強い絶望感が伝わる。騙されたとはいえ、恋人オクタビオであると思い込んでいただけに自分にも非があるのであり、自らを責めたくなる気持ちも理解できる。

愛する人であると思い操を捧げたのに実は他の男であったという女にとってこれ以上に不名誉で不幸なことはないだろう。では、ドン・フアンは、事態をどのように対処したのだろうか。御座所から聞こえた異常な声を聞きつけて、スペイン大使ドン・ペドロ(ドン・フアンの叔父)と衛兵が登場する。ドン・ペドロは、誉れ高き父の名誉を蔑ろにするドン・フアンの無法極まりない行為に対して、彼を咎め捕らえようとする。対するドン・フアンは、

「弁解はしたくありません。私には叔父上と同じ血が流れています。それを流して罪の償いとなさって下さい。」

と弁解もせずに罪を罪として認め、償うべくして叔父である自分の足元に伏している。

しかし、弁解はぜずとも、

「(悪行を犯した)自分と同じ血が流れている」

という台詞は、叔父の情けを煽り、逃げるための立派な手段であろう。叔父の名誉にも関わる問題であるからだ。悪行と逃亡を重ねてきた、ドン・フアンは、イサベラの時と同様に、どうすれば相手の心を動かし自分の思い通りに事が運べ、そして、無難に逃げることができるのか、よくわかっているのだろう。悪知恵に長け、したたかで計算高く、物事を思い通りに運ぶことができる。これが、ドン・フアンの凄さ①である。実際に、ドン・ペドロは、甥ドン・フアンの、しおらしい態度に負け(実際は自分の名誉を守る為であろうが)、結局は、若さ故に犯した過ちであるとして情けをかけ、あろうことか、罪はオクタビオに着せて、ドン・フアンのスペインへの逃亡の手助けをする。
すべて計算通りの結果である。

では他方で、罪を着せられたイサベラの本物の恋人オクタビオとはどんな男なのであろうか。「共に居ても離れて居ても心に棲みついたあの人の名誉の城壁を踏み越えるわけにはゆかず、それが俺には耐え難い責め苦なのだ」という台詞や、下僕リピオの「相思相愛なのだから、さっさと埒をあけてやっちゃいなよ」という声に対して「たわけたことを」ときっぱりと拒否していることなどから、オクタビオのイサベラへの愛は、情欲ではない、本物の愛であることがわかる。

自分にとっては耐え難い責め苦であっても、相手の名誉を何よりも大切に考え、自分の欲望を抑えているからだ。自分の欲望が何よりも優先するドン・フアンとは、まったく対照的な愛である。「フエンテ・オベフーナ」同様に本書でも「情欲の愛」と「本物の愛」が対比されている。

以上の意味では、イサベラだけではなく恋人オクタビオ公爵が受けた屈辱も無視できない。①愛するイサベラが他の男と居り、その男の腕に抱かれていた上、結婚を餌に騙され、彼女の名誉を汚された、②愛するイサベラが彼女の名誉を汚したのは、自分自身(オクタビオ)であると供述しているという彼女の裏切り、③愛するイサベラが自分の恋心を弄んだ上、自分に愛想を付き「死」へと追いやろうとしている、などとオクタビオ公爵の名誉が被った傷は計り知れないからだ。こうした意味でオクタビオもドン・フアンの犠牲者であるといえる。以上のように誠実な男オクタビオに罪をきせたドン・フアンは、罪悪感もなく下男カタリノンと共にまんまとナポリを脱出することに成功する。しかしドン・フアンはスペインに逃れる途中の海で嵐に遭い溺れてしまう。

ここ(タラゴーナの海辺)でドン・フアンを助けて彼の二人目の犠牲者となるのがすこぶるつきの美人ティスベア(漁師娘)である。

二人目の女:漁師娘ティスベア (タラゴーナ海辺)

ドン・フアンはどのようにティスベアと関わっているのであろうか。ティスベアの台詞は長いので彼女に関する多くの情報が読み取れる。せっかくの機会なので、台詞からどんな女なのか少し分析してみたい。

「口説きかける者を手厳しくはねつけ、約束などにはびくともしない盤石の私は、白波の噛む海岸にかかり火を焚いてタラゴーナを海賊から守る漁師たちの蔑みと憧れの的。」

「わが身の操は、豊潤な果実か浄玻璃の器のごとく藁苞に包んで損なわないように大切にしまってある」

という台詞から、彼女は自分が漁師達の憧れの的であることを十分にわかっており、わざと言い寄ってくる男たちを冷淡にすげなくあしらい、決して恋の虜になろうとはせず操を守り続けているという、良く言えば貞淑な女であり、悪く言えばナルシストであるというところだろうか。

また「藁のオベリスクを屋根に戴いた小屋は、蝉こそ寄り付かないが恋に狂う雉鳩が巣をかける」などと、自分の「操」を藁のオベリスクを屋根に戴いた「小屋」、そして自分に恋心を寄せるアンフリソを「雉鳩」であるとし、さらに「(アンフリソが)すげなくされてもじっとこらえて苦しみに耐えているが、凍て付く夜も小屋の周辺を歩き回り、たとえ、嵐の日でも若やかに小屋を蘇らせてくれる。」などと、自分の「小屋」(操)を恋に狂う「雉鳩」(アンフリソ)が巣をかけて守っているという。よほど操を大切にしているのがわかる。またそれを守っているアンフリソの愛も本物であろう。しかし

「花の盛りに、恋よ、お前の投網にかからずにいられるのはとてつもない幸せだ」

「恋の帝国に君臨し、あの人の悩むのが嬉しく、またあの人の地獄の苦しみを栄光の至福と考える私」

という台詞から、彼女はあえて恋に落ちようとはせず恋の虜にならないことが幸せであり、またアンフリソが苦しんでいるのを至福として喜んで見ていることがわかる。

では、なぜ彼女はわざとそのような冷たい態度を取り恋に落ちようとはしないのか。また、なぜアンフリソが苦しんでいることが喜びなのだろうか。

「嬉しがらせれば恋は滅びるし、冷たくあしらえば活気を得る、それが恋に特有の条件。」

という台詞から、彼女は嫌われようとして男をすげなくあしらっているのではなく、むしろその逆で、自分をより愛させようとして、わざと冷たい態度をとっていることがわかる。しかも、冷たくすることが、より愛されるための最良の方法であるとわかっており、だからこそアンフリソが苦しめば苦しむほど、彼の愛が強まるのを感じ、そこに幸せをかみ締めているのであろう。つまり、決して恋に落ちて人を愛そうとはしないが、とにかく愛されたいのである。それが彼女にとっての何よりの喜びなのであろう。

以上のように、ティスベアの長い台詞からは、自分が一番大切で、「愛すること」よりも「愛されること」を喜びとする自己愛主義的な人物像が見えてくる。これも長い台詞の効果の一つであろうか。しかし、そんなティスベアでさえも、ドン・フアンを見た瞬間に「凛々しく気品があって男前、すばらしい殿御だわ」と、心を動かされてしまう。上述したように、男を手玉にとり、これ以上にない位に気位が高く、お堅い女ティスベアを一瞬にして虜にしてしまうくらいだから、ドン・フアンは、よほどの美貌の持ち主なのであろう。これが、ドン・フアンの凄さ②である。

さらに

「君に命を捧げることになると覚悟の上だが、君のために命を失うなら本望だ。夫になると約束する。」

「愛というものは法に則って絹と毛織物とを対等にしてくれる」

などと、高貴な身分を利用した結婚の約束を餌に彼女を口説くドン・フアンに対して、「まさか騙すのではないでしょうね」と用心深さを見せつつも、

「昨日まではこんなお世辞が嫌でたまらなかった。なのに今ではまんざら嘘を言っているのでもないとわかるから妙だわ」

と言うことから、ドン・フアンの口説き文句の素晴らしさも伺える。

嘘なのに嘘に聞こえない口のうまさ。これも、ドン・フアンの凄さ③であろう。また、狙った女は、口説き落とすまではどんな手段を使っても、どんな嘘を言ってでも諦めないのだという、執着心と辛抱強さも伺える。これも、ドン・フアンの凄さ④⑤である。

実際に、さっきまでは自己陶酔にふけり自分だけは恋の虜にはならないと断言していたティスベアが、いつの間にか

「しばらくでもあなたがいらっしゃらないと自分が自分ではないみたいです。」

「私はあなたのものです」

と言う始末である。いくらなんでも展開が速すぎる気もするが、これが恋というものであろう。突然訪れる病気のようなものである。この病気にかかってしまったらもう終わりである。相手のことしか頭にはなくなってしまうのだから。どんなに自分のことが大切な女でも、どんなにお堅い女ティスベアでもあんなに大切にしていた「操」までも捧げてしまうのだから、ある意味女にとって恐ろしい病気なのかもしれない。

本書の作者ティルソ・デ・モリーナはマドリード在住のメルセード派修道会の神父であるが、年に二回セビーリャの教会で信者の告解を担当していたとされる。そして、告解室で神父への告白と許しを求めてやってくる婦人たちの話から、女性のもろさと愚かしさ、そして痴情による数多くの殺傷事件を聞いたという。

以上のことから、神父としての立場からも、ティスベア(勿論他の女に関しても言えるが)を教訓に、女性の愚かしさやもろさを戒めているのかもしれない。

実際に、四人の女の中でも特にティスベアの場合、ドン・フアンに騙された後の描き方が凄まじく、結局彼女を騙して操を奪った挙句逃げてしまったドン・フアンに対する台詞

「男どもを手玉に取ってきた私なのに、男をあなどっているといずれはしっぺ返しを喰らうのが女の常。」

や、燃えている小屋を見て叫ぶ台詞、

「小屋(操)が焼ける!心が焼ける!」

などから、彼女のショックの大きさ、犯した過ちの大きさは特に甚だしいという印象を受ける。当時の観客や読者は、女にとっていかに「操」が大切なものなのか、彼女を通して考えさせられただろう。

さらに、コリドンの

「気位の高い女がこのざまだ。のぼせ上がったのと思い上がりとでこうなってしまった」

という台詞からは、彼女に「罰」を与えたのだというティルソの意図も読み取れる。すなわち、神が最も嫌うという「傲慢」「尊大」の罪である。第一幕は、以上のように気の毒なティスベアが、ドン・フアンに復讐を誓い、恋の女神に慈悲を乞うという形で終わる。

第二幕ではティスベアを騙して再びセビーリャに逃亡したドン・フアンの三人目の犠牲者となる(実際に名誉は守ったようだが)ドニャ・アナ(カラトラーバ騎士団長ドン・ゴンサロの美しい娘)に関するプロットが中心に展開され、アナの父ゴンサロが決闘の末、ドン・フアンに殺される。で、後半に少しだけドン・フアンの四人目の犠牲者となる可愛いアミンタ(農夫の娘)が登場するという筋書きである。

三人目の女:ドニャ・アナ (セビーリャ)

ドン・フアンは、どのようにアナと関わっているのだろうか。アナに関しては、まずドン・フアンが、友人ラ・モータ侯爵との「遊び」(女を騙してポイと捨てる)の途中に、モータ侯爵が「遊びの女」とは区別して恋心を寄せ、

「(器量は)すこぶるつき。大自然が贅を尽くしてドニャ・アナ・デ・ウリョアを造り上げている。」「国王の眼にとまった超一流の美人」

・・・などと絶賛するドニャ・アナに興味を持つことから始まる。父ゴンサロも

「美貌もさることながら、天与の淑徳に恵まれ、目を見張るばかりの驚異はセビーリャの綺羅星に君臨する日輪である」

というくらいだからよほどの美人なのだろう。

ここまで凄い美人と聞いて、すこぶる美人好きのドン・フアンが手を出さないはずがない。実際に、

「そんなに凄いのか。こいつはなんとしてもご尊顔を拝まずばなるまいて」

と、モータの絶賛ぶりをきっかけにアナに興味を持ったことがわかる。

したがって、もとはといえば獣ドン・フアンに、愛するアナのことをぺらぺら話したモータが悪いのであるが、恋をしたら物事の分別がつかなくなり、想いを寄せる相手がどんなに素晴らしい人で、どんなに好きなのか、誰かに言いたくなる気持ちは理解できる。よほど、彼女が好きなのだろう。実際に、アナへの思いを「かなわぬ恋」であるとし、「(色よい返事をくれるにも拘らず)最後の踏ん切りがつかないんだ」と、彼女を愛するがゆえに、彼女の操までは手を出せないでいる奥手な面も見られ、モータ侯爵のアナへの愛も、今までの犠牲者オクタビオやアンフリソ同様、本物のようである。

「セビーリャ中が、俺のことを色事師と呼んでいるが、俺の心に潜む無上の楽しみは女を騙してポイと捨てることよ」

という、現代においても非倫理的かつ道徳的な問題発言をし、女を愛するどころか、操を奪うことしか考えていない獣ドン・フアンに比べたら対照的な愛である。

では、ドン・フアンはどのようにしてアナに近づき彼女を騙したのであろうか。その悲劇の原因は、不運にもドニャ・アナが、ドン・フアンをモータの友人であると見込んで、彼に手紙を預けてしまったことにある。要するに、選んだ相手が悪かったのだ。しかし、一方のドン・フアンにとってはこれ以上にはない幸運である。彼がこの好機を逃すはずがないだろう。不思議なのは、悪事を企むが、なぜかドン・フアンにはそれを遂行させるべく幸運がついてまわるということである。(悪)運が良い。これも、ドン・フアンの凄さ⑥である。実際に幸運のおかげで、彼はモータを騙して、手紙に記載されていた深紅のマントを借りてモータ伯爵になりすますことに成功したのだ。

このように、一方では「悲劇」、また他方では「喜劇」というように、ある意味では「喜劇」と「悲劇」が同時進行しているようにも見えるのが興味深い。しかし、幸運は長く続かず、結局本望であったドニャ・アナの操までは奪うことができなかった。以上のことから、ドン・フアンの幸運も徐々に傾き始めてきていることがわかる。天罰が下る前触れであろうか。その証拠に、ドン・フアンに対する最後の「警告」なるものさえも差し伸べられている。つまり、極悪非道なドン・フアンにも彼の身を案じ、忠告してくれる人はいたのだ。

「女を騙してばかりいなさるといずれはその付けがどっと回ってきていっぺんに支払うはめになりますぜ」

と言う下男カタリノンや、

「必ずや天罰が下るぞ。あの世の呵責なき裁きの司である神の御名を汚す者には必ず神罰が下ると知るがよい」

と言う父ドン・ディエゴである。

こうした忠告は、作者が聖職者であるということを考慮すると、神からの最後の「救いの手」とも見られるだろう。いかにも神父であるティルソらしい筋である。ドン・フアンの辿る運命から引き出される道徳的教訓を強調したかったのであろう。以上の意味では、今後いっぺんに降りかかることになるドン・フアンへの天罰は、彼の行動次第では回避できたのだとも言えるのである。

しかし、ドン・フアンは自らの悪事を反省し、改心して神への慈悲や、赦しを乞おうとはしなかった。まるで神に逆らった悪魔サタンのように。それどころか、

「あの世へ行ってからですか?それまで待ってもらえるのですね。ずいぶんと遠い先の話だ。」

と、開き直って聞こうともしない。つまり、彼にとっては、今現在が楽しけりゃよいのであって、「死」や「あの世」などといった概念は、まったく頭にはない、いわば、非現実的で無意味な言葉なのである。したがって今の自分には関係のない、言ってみれば「ありえない」話なわけだから、必然的に「死後」のことなど考えられないのも無理はないだろう。親だけではなく死(人)、そして神さえも畏れない図太さ。こわいものしらずもいいところだが、これもある意味ではドン・フアンの凄さ⑦であろう。

そしてこの後、ついにドン・フアンは、神からの天罰を決定的とする罪を犯してしまうのだ(観客として観ている方からすれば今まで天罰が下らなかったことが逆に不思議であるが)。すなわち、殺人の罪である。アナを騙した後に、家の名誉を汚され汚名返上すべく立ち向って来たアナの父ゴンサロとの決闘の末、彼を殺めてしまったのである。神への冒涜は言うまでもなく、詐欺、強姦、逃亡、そして、名誉毀損などと、罪に罪を重ね、ついには殺人の罪までも犯してしまったドン・フアンには、もはや同情の余地はないだろう。神罰あるのみである。

「自ら招いた死だ」と言い残して逃亡するドン・フアンに対して、死ぬ間際に言ったドン・ゴンサロの

「もう助からぬか。行ってしまった。この怒りが貴様を付けねらうぞ」

という台詞が印象深い。家の名誉を踏みにじられたからには、死んで、「死人」となってからも、魂は生き続け、仇を討つべくどこまでも付けねらい、汚された名誉を挽回するまでは決して許さないのだという強い怒りや、恨みを残して亡くなった「死人」の執念が伝わる。まさに呪いの言葉である。彼らにとって名誉というものがいかに重大な意味を持つのか伺える。

ちなみに、死に際に復讐を誓い、後にドン・フアンを地獄に落とすという重要な役割を持つドン・ゴンサロの亡骸は、

「騎士団長の儀は、高潔英邁なる人物にふさわしく出来うる限り荘厳盛大に埋葬を執り行うように、青銅と様々の石で墓を築いて彫像を据え、復讐の言葉を荘重なる文字をもってモザイク状に刻み付けよ。」

と言う国王の費によって、装飾し埋葬された。一方、彼を殺して逃げてきたドン・フアンは、アナを騙して、もはや用なしのマントをモータ侯爵に返し、罪悪感もなく、そ知らぬ顔をして

「では、失敬するよ」

と退場する。つまり、冗談抜きに、この男は反省もしていなければ、罪を犯したという意識さえもないのである。

こうして、ドン・フアンが犯した罪は全てモータにかかったわけであり、したがって、オクタビオ公爵と同様に、同じ手口で犠牲になったモータ侯爵の屈辱も無視できない。

①友人に裏切られ、騙された挙句、無実の罪を着せられ、国王の裁きで首をはねられる寸前にあり、

②愛するドニャの名誉が踏みにじられ(実際は守った)、

③結局、首を長くして待っていたアナとの逢引きは無になる、

などというように、彼の名誉の傷も計り知れないのだ。今後起こるであろう、愛するアナとの「お楽しみ」の時間の到来を楽しみにして待っていたモータだけに気の毒な展開であるが、これもティルソの意図するものなのであろうか。

実際に、当時のセビーリャの街路は刃傷や殺傷事件が絶えなく、その多くは痴情が原因で、特に若い貴族の子弟が夜な夜な仮面をつけ、黒マントを羽織って、傍若無人に振舞っていたという。以上のことから、真剣にアナを愛する誠実さを持っていながらも、一方では「遊び」(痴情)にふけっていたモータを通して(ドン・フアンは言うまでもない)、当時の貴族の子弟の行動を戒める意図があったのかもしれない。

以上のように、第二幕はほとんどが、セビーリャにおけるドン・フアンとドニャ・アナにまつわるエピソードで占められ、後半に少しだけ、次の逃亡先のドス・エルマーノス村における若い農夫バトリシオとアミンタの結婚式が行われており、そこにカタリノンがやって来てドン・フアンの到来を告げる。この時、花婿バトリシオが不吉な予感を感じたように、たまたま結婚式にやって来て、可愛い花嫁アミンタに目を付けたドン・フアンは、アミンタの隣に座り、彼女の手を取ろうとするなど、わざと花婿を嫉妬させる素振りを見せ、それに対してバトリシオが「生きた心地がしねえ」と、嫉妬で苦しむというところで幕は閉じる。以上のドン・フアンの「素振り」と、バトリシオの「嫉妬」は、次の第三幕における悲劇の、ほんの序章に過ぎないのだが、新たな展開に対する不吉な予感と観客の興味を引き立てるという意味では、ふさわしい筋ではないだろうか。

四人目の女:農夫の娘アミンタ>(ドス・エルマーノス村)

ドン・フアンはアミンタとどのように関わったのだろうか。ドン・フアンが、アミンタを口説き落とすまでに行ったことは少なくとも二つある。第一にドン・フアンが

「平民なんて奴は名誉を後世大事と抱え込んでそれしか眼中にないものだから名誉を盾にへこましてやった。」

と公然と言っているように、以前に自分(ドン・フアン)が花嫁アミンタの操を奪ったのだという、バトリシオの名誉を利用した嘘を付くことによって、バトリシオのアミンタに対する不信感を煽ったことが挙げられる。こうして二人の関係を壊した上で、第二にアミンタに近づき、漁師娘のティスベアを騙したときと同じ手口で、身分を武器にした結婚の話を持ちかけて彼女を誘惑したことが挙げられる。

では、婚約者がいるにも拘らず、どのようにしてドン・フアンはアミンタを口説き落としたのであろうか。寝ているアミンタのもとへ向かったドン・フアンに対して、アミンタは

「誰。私のバトリシオなの?」「帰ってください。バトリシオの好意を踏みにじって」

と、関係がぎくしゃくしている中でも、まだバトリシオを愛していることがわかる。しかし、ここからがドン・フアンの腕の見せ所である。

身分の低い女を騙す3つの餌

ティスベア同様、身分の低い女を騙すための餌は少なくとも三つあり、女の状況に応じて以下のように三段階的に分けられる

第一に身分である。例え

「私は従昔のセビーリャの征服者テノーリオ家の嫡男にして高名なる騎士だ。わが父上は国王の次に人々から敬意と尊敬を受けており、宮廷における生殺与奪の権は父上の言葉一つにかかっている」

などの台詞がある。

第二に、第一の「身分」を前提とした偽りの「愛」である。例えば

「君を見初めて恋に落ち、すっかり燃え上がってしまった」「私は君を愛している」

などがある。そして、

第三に、極めつけの「結婚」である。例えば、

「私に君への愛情が結婚をしろと勧めてくれている」

があるだろう。美貌はさることながら「高貴な人」が自分を「愛してくれ」そして「結婚」を申し出てくれている。農夫の娘にとってこれほど名誉なことはないのだろう。

(相手の立場や身分、そして、状況に応じて)完璧に計算・プログラムされた口説きのシナリオ。もはやプロとしか言いようがなく、これも色事師ドン・フアンの凄さ⑧である。しかし、心は揺さぶられるが堪えて

「私がバトリシオと結婚していることは周知の事実であり、今更取り消せるものではない」

と言うアミンタ。それでも諦めないドン・フアンは、ここで

「床入りが終わっていない限りは騙されたとか意地悪だとかの理由で無効になる」

と、とどめを刺す。

そして、ついにアミンタの心に変化が起こるのである。

「騙したりなさらない?」

とアミンタ。この言葉を引き出せたらもうしめたものであろう。ティスベアの時と同じパターンであるだけに味をしめたドン・フアンの心の中で喜ぶ様が目に浮かぶようである。そして、とうとうアミンタは

「身も心もあなたのものです」

と騙されてしまう。

婚約者バトリシオへの愛はどこへ行ったのだろうか。彼女の乗り換えぶりは素晴らしいが、やはり、ドン・フアンの、女の口説きに対する辛抱強さ、執着心には脱帽されるばかりである。また、農夫の婚約者バトリシオを捨ててまで、ドン・フアンとの結婚を選んだアミンタからは、人の心を動かすのは、やはり、一概に「愛」だけであるとはいえないのだと痛感させられた場面でもある。

以上で、劇におけるドン・フアンと四人の女との関わりは、結局全員騙されたという形で、とりあえず一段楽する。つまり、手段は異なるが、狙った女は全て騙したということになる。これが、とりわけ強調したいドン・フアンの凄さ⑨である。さすが色事師とされるだけあるといったところであろうか。後は、石像(神)による最後の制裁を待つばかりである。セビーリャで自分が殺めたドン・ゴンサロの石像を見て、からかい半分に石像を夕食に誘い、その翌日の夜、石像の招待に応ずると、地獄の宴が開かれ、ドン・フアンは石像に手をとられ、地獄の業火に焼かれ、地獄に連れ去られる。

今まで、「死」や「死人」などまったく恐れてはおらず、今の自分には関係のない「非現実的な対象」であるとしていただけに、「神」さえも当然のことのように畏れてはいなかったドン・フアン。自分が殺めた「死人(ゴンサロ)」の「石像」という、「非現実的な対象」によって復讐されたことは、ドン・フアンにとって、最も意味のある出来事であったように思われる。これをきっかけに「死人」という非現実的な対象の存在を強く感じることで、自分自身の「死」や「死後」のことをも身近に感じることができ、また同時に「神」の存在の大きさをも痛感できたのではないだろうか。また、家の名誉を汚され無念の中に死んでいったゴンサロによる、ドン・フアンに対する復讐の言葉が刻まれた「石像」によって、地獄に落とされることも、もはや死人に口なしとなっていたゴンサロの復讐として最もふさわしい筋であるといえるだろう。

これで彼の名誉も挽回できただろう。今まで鬱憤が溜まっていた観客にとってもこれ以上に気持ちが晴らされる展開はないだろう。そして、最後にカタリノンがドン・フアンの最期を知らせに、再びセビーリャにやって来て、ドニャ・アナを除く、ドン・フアンの犠牲者全員(イサベラ、オクタビオ、ティスベア、モータ、アミンタ)が顔を揃える中、国王の前でドン・フアンの悪事が露顕しオクタビオ公爵とイサベラ公爵夫人、そしてモータ侯爵とドニャ・アナの二組のカップルが結婚し大団円に終わる。

ドン・フアンが支持される理由

以上のことから、ドン・フアンが支持される理由、そして、ドン・フアン文学(演劇)の醍醐味は、少なくとも以下の二つがあると考える。第一に、分析の過程で述べてきた罪深い人物像だけではなく、その中にも少なからず垣間見える「凄さ」をも兼ねそえているという、彼の魅力的な人物像にあるということ。そして、第二に、ドン・フアンが遍歴する波乱万丈のピカレスク(悪漢)的な側面にあるということである。悪事を働き、罪に罪を重ねるドン・フアンを中心に展開される劇の筋を追う中で、溜まりに溜まった観客の鬱憤が、最後の最後に晴らされる。ここに、観客(読者)は、ほっと安堵の胸をなでおろせるのであろう。

それぞれの女たちが求めた「名誉」

当時の女にとっての名誉とは、勿論、処女であること、そして、愛する人の為だけに守るべき「操」であり、結果としてそれらが「家の名誉」に結びついていくのだということは認識してはいるが、本書を通して、身分の違いに応じて、以下のように彼女たちの「名誉」の概念にも微妙な違いがあるのではないかという疑問が生じた。そこで、その疑問を前提に、以下の二つの仮説を挙げ、本書で登場する四人の女たちを基に検証してみたい。

第一に、身分の高い女にとっての名誉とは、上述した通りの、愛する人の為だけに捧げる操、すなわち操の名誉である(家の名誉<操の名誉)。第二に、身分の低い女にとっての名誉とは、操の名誉も勿論大事であるが、それ以上に、高貴な身分の男との「結婚」を条件に芽生えた愛を前提として、その高貴な身分の男に捧げる操、すなわち家の名誉が勝るのではないか(家の名誉>操の名誉)。まず、ドン・フアンと四人の女との関わりを身分の違いに応じて整理してみる。

高貴な女との関わり

イサベラ(公爵夫人)

美しいイサベラに目を付けたドン・フアンは、イサベラの恋人オクタビオ公爵になりすまして、彼女を誑かし望みを遂げる。しかし、別れ際に彼女が明かりを灯したため正体がばれて騒がれたため逃亡。

ドニャ・アナ(カラトラーバ騎士団長ドン・ゴンサロの娘)

友人ラ・モータ侯爵が絶賛し、国王も目をかけるほどの美人であるというドニャ・アナに目を付けたドン・フアンは、婚約者(いとこ)のラ・モータ侯爵になりすましてアナを誑かすが、直前に正体がばれ、騒がれたので、操までは奪うことができず逃亡。

身分の低い女との関わり

ティスベア(漁師の娘)

海で溺れたところを救ってくれた、すこぶる美人ティスベアに目を付けたドン・フアンは、自らの高貴な身分と美貌を武器に、結婚を持ちかけてティスベアを誘惑し、まんまと騙された彼女の操を奪い、望みを遂げたら逃亡する。騙された彼女は失意のどん底に陥り、ドン・フアンへの復讐を誓う。

アミンタ(農夫の娘)

たまたま通りかかった結婚式で見た可愛い花嫁アミンタに目を付けたドン・フアンは花婿バトリシオをわざと嫉妬させるよう振る舞い彼を苦しめた挙句、平民であるバトリシオの身分と名誉を利用した嘘で彼を騙し、バトリシオのアミンタへの不信感を煽る。こうして二人を不仲にした上でアミンタに近づき、自らの高貴な身分を武器に、結婚を持ちかけて彼女を騙し、操を奪う。嘘がばれるまで彼女を騙し続けるという根性である。 以上のように整理すると、四人の女には、とりわけ美人であるという以外に、それぞれ少なくとも以下の三つの共通点があることがわかる。

まず、イサベラとアナの共通点は、第一に、高貴な身分であること。第二に、どちらも「愛する人」になりすますという、同じ手口で騙され、操を奪われて(奪われかけて)いるということ。第三に、相手が「愛する人」であると思い込んで操を捧げたのだということ。つまり、どちらも愛する人との結婚を条件に、彼女たちにとっての名誉である操を捧げたのであり、間違っても「ドン・フアン」の為に捧げた愛ではないのだ。以上のことから、高貴な女が結婚相手の条件として、最も重要視し、求めていたのは、「高貴な身分の男」というよりはむしろ「愛する人」なのであり(勿論高貴な身分の男との結婚は、大切なことではあるがそれ以上に)、彼女たちにとっては、愛する人と結婚し、その人の為だけに捧げる操こそが「名誉」であったのだと考える。

実際に、イサベラは、騙され操を奪われたドン・フアンとの結婚が取り決められたことに対して、誰よりも愛するオクタビオとは結婚できない辛さを以下のように言っている。

「高貴な身分であるドン・フアンの妻になることは少しも悲しくはないが、地に堕ちた名誉のために生涯を泣き暮らすことになるのは辛い」

と。したがって、高貴な女にとって最も優先される「名誉」とは、高貴な身分の男と結婚する「家の名誉」(勿論これも大切ではあるが)というよりはむしろ、愛する人と結婚する「操の名誉」なのではないかと考える。しかし、結局のところ、騙され、相手は愛する人ではなかった。おまけに、イサベラの方は「操」まで奪われてしまった。これが、彼女(たち)にとっての究極(二重)の「不名誉」なのであろう。

次に、ティスベアとアミンタの共通点は、第一に、身分が低いということ。第二に、どちらも、ドン・フアンの身分を利用した結婚の約束という、同じ手口で騙され、操を奪われているということ。第三に、両者とも相手が「ドン・フアン」であるとわかった上で、操を捧げたのだということ。つまり、どちらもドン・フアンとの結婚を条件に、彼女たちにとっての名誉である操を捧げたのである。特に、アミンタは、愛する婚約者であるバトリシオ(農夫)との結婚を破棄してまでも、ドン・フアンとの結婚を選んでいる。

以上のことから、身分の低い女が結婚相手の条件として、最も重要視し、求めていたのは、「愛する人」というよりはむしろ、「高貴な身分の男」なのであり、彼女たちにとって、高貴な身分の男との結婚が、いかに名誉なことなのであるか伺える。したがって、身分の低い女にとって、最も優先される「名誉」とは、愛する人と結婚する「操の名誉」(勿論これも極めて大切であるが)というよりはむしろ高貴な男と結婚する「家の名誉」なのであると考える。しかし二人とも何度も「騙すのではないでしょうね」と聞き、あれほど念を押していたにも拘らず、結局のところ「結婚」は嘘であった。おまけに「操」までも奪われてしまった。これが彼女たちにとっての究極(二重)の「不名誉」なのであろう。

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