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19世紀イギリスの社会と学校教育―民衆教育遅滞の原因に関する考察【大英帝国の栄光の礎と影】

I. 近代化過程におけるイギリスの教育

イギリスは世界でいち早く市民革命、産業革命を経験し、近代化を進めた。しかし、その一方では、教育の近代化だけは遅々としたものであり、国家レベルでの公教育が制度化されたのは、近代化の絶頂期でもある繁栄の時代を過ぎて、19世紀後半の大不況期に入る直前の、1870年になってからであった。したがって、イギリスの場合、日本のように公教育が先導となり徐々に近代化が進められたのではなく、むしろ、教育の方が近代化を後追いするという形でそれが進められていったのだ。つまり、イギリスの近代化過程において公教育はほとんど普及していなかったといえる。ここで当然のことながら疑問に思うのが、なぜ、イギリスにおいて教育の近代化が遅れていたのか、ということである。それを明らかにするための前提として、まずIIでは、基本的な点である、公教育が制度化される以前、つまり、近代化過程のイギリスの教育(およびその役割)とはどのようなものであったのか、ということについて、中等教育(パブリック・スクール)を中心に、下層階級と中・上流階級のそれぞれの教育について簡単に概要を述べる。次にⅢで、おもに労働者階級を中心とした民衆教育(宗団による公営週日学校、および、公立の小学校)に焦点をあて、初等教育法の制定(1870)以前と以後にかけての教育と社会の関係を、政府と宗団の教育界における権力関係に注目し分析する中で、教育の近代化の遅れの原因を検討する。そして、最後に、それまでの知見をふまえつつ、特に女性に焦点をあて、民衆教育を女子教育(公営学校=宗団経営の学校、および、公立の小学校)の面から、そこでの宗団と国家との関わりを中心に分析していくことによって、男女総括した上でのイギリスにおける民衆教育遅滞原因という、当初からの問題を再考し、結論へと導くべく手がかりをつかみたい。

II. 中等教育(パブリック・スクール)の社会的影響・役割

パブリック・スクールに関する一連の社会的背景を分析してわかったことが二つある。第一に、政府は、主に中流階級を対象としたパブリック・スクールを増設する、あるいは、上流階級との宗教的差異を撤廃するなどの試みをしつつも、その一方では、授業料を取ることによって下層階級にとっては不利な環境をつくり排除するなどといった矛盾した行動から、その主要な対象を少なくとも下層階級ではなく、(上流階級はもちろんだが)とくに中流階級に置いていたように思われること。しかし、第二に、以上のように中流階級を主要な対象としているように見せつつも、改革の内容に若干の矛盾点があること。例えば、古典語中心のカリキュラムを改善し、ラグビー校に続いて他のパブリック・スクールでも徐々に、中流階級の要求する近代的諸学科を取り入れつつも、結局は、一貫してジェントルマンの教育である古典語教育が中心であったということなどが挙げられる。したがって、以上の二点から、結局のところパブリック・スクールの最大の対象は、中流階級というよりかは、むしろ、ジェントルマンにあったといえ、そしてその目的は、経済的に成長した上層の中流階級を、パブリック・スクールにおける教育を通じてジェントルマンに成り上がらせることによって、上層中流階級を上流階級に融合・統合することであったということ。要するに、パブリック・スクールにおける教育は、上層中流階級をジェントルマン化し、さらなるジェントルマンの支配体制を維持・強化するための手段であり、また同時に、学校とはジェントルマン支配体制の基礎をつくるための基盤であったといえるだろう。そしてここに、パブリック・スクールの重要な社会的役割があったのではないかと考える。

Ⅲ. 民衆教育の国家的役割

次に、民衆教育(宗団による公営週日学校、および、公立の小学校)に焦点をあて、初等教育法の制定(1870)以前と以後にかけての教育と社会の関係を、政府と宗団の教育界における権力関係に注目して分析する中で、教育の近代化の遅れの原因に関して、少なくともこの時点においては、以下の二つがあるのではないかという考えに至った。第一に、政府の教育に対する熱意があまりにも欠けていたのではないかということである。とはいえ、必ずしも民衆教育に無関心で放置していたわけではなく、関心はあったとしても、それは真に民衆の幸せを願って、彼らを中心とした教育ではなく、むしろ自分たち国家の利益を中心に考えた教育であった。たとえば、民衆の暴動などの危険を防ぐためや他国の躍進に対処するため、あるいは、最低限に世論を受け入れるために、1833年を境に国庫補助金交付を始めたが、予想以上に出費があったため、出来高払い制度により補助金の交付額を縮減する、さらには、初等教育法を制度化したにも拘らず、教育委員会の設置に対して乗り気ではなく、政府の怠慢があったことなどが挙げられる。つまり、彼らにとって公教育とは、民衆のための教育というよりかはむしろ国家のための教育であり、とくに政府にとっては最重要視すべきものではなかったのだといえるだろう。さらに、政府があまり熱心ではないことに反して、その一方では従来からの教育権を握っていた宗団の教育権に対する執着心はあまりにも大きなものであり、1870年当初まで、彼らの勢力は依然として存続していたことが明らかになった。以上を踏まえ、イギリスにおける教育の近代化が遅れた第二の原因として、単に政府の熱意の低さだけではなく、宗団の教育権に対する執着心の強さをも含めた、両者の不均衡が影響し合い、教育の世俗化(非宗教化)が進展しなかったのではないかと考える。また、以上のことから、当時の民衆教育の役割とは、彼らに知識を与え、少しでも身分を向上させてやるなど、真に民衆の幸せを願って万人に平等に与えられるべきものではなく、むしろ、民衆の要求を最大限に受け入れ、ある程度の主権を持った労働者階級をおとなしくする、そして、結果として体制側の支配体制を維持・強化するための一つの政治的手段であったのだといえる。したがって、Ⅱにおけるパブリック・スクールの場合と同様に、そもそも当時のイギリスにおける教育とは体制側の支配体制を維持・強化するための手段であり、学校とはそのための基盤に過ぎない極めて政治的・軍事的な組織であったといえるだろう。

Ⅳ. 女子教育を含む民衆教育の国家的役割

しかし、以上のことはあくまでも、男女の区別なしに彼らを「民衆」と一括りにして捉え、特に、選挙権を付与された男性のみを対象とし、(19世紀においては政治的、法的権利を制限されていた)女性を無視した一面的な解釈に過ぎない。当然のことながら、「民衆」の概念には女性も含まれるのである。そこで、ここではそれまでの内容をふまえつつ、特に女性に焦点をあて、民衆教育を女子教育(公営学校=宗団経営の学校、および、公立の小学校)の面から、そこでの宗団と国家との関わりを中心に、分析していくことによって当初からの問題を再考した。その結果、男女それぞれの教育の役割は、民衆教育に対する価値観の変化と密接な関わりがあったことが明らかになった。まず、具体的に民衆教育に対する価値観の変化について見ていくと、産業革命以降、特に19世紀前半から、少なくとも1967年までの繁栄の時代においては、政府は上層部(ジェントルマン)を対象とした教育に力を入れつつ、一方では、社会的・政治的に権力を持たない民衆に対する教育に関しては、それほど関心を持っておらず、労働者階級に対しては最低限キリスト教徒として必要とされる教育(つまり3RSと宗教教育、女子には裁縫も)を与え、彼らをおとなしくさせる程度でよかった。しかし、こうした価値観は徐々に変化し、労働者階級の男性への選挙権の拡大と、パリ万博が行われた1867年以降には、イギリスにおける民衆教育は国家的に意味のあるものとなったのである。つまり、パリ万博において帝国の衰退と、他国の躍進を痛感し、危機感を持つようになってからは、政府は単に民衆をおとなしくさせるためだけではなく、ちょうど選挙権を付与された労働者階級の男性に対する技術教育など、より国家的に貢献されるであろう高度な知的教育を与える必要性を感じ始め、ようやくその実行へと移すべくあらゆる援助をはじめたのである。要するに、1867年以降、国家の教育への態度が変化すると同時に、帝国における教育の役割も、単に彼らを文明化し、おとなしくすることによって支配体制を維持・強化するためのみならず、他国との競争に勝つための一つの戦略へと変化したともいえるのである。ちなみに、具体的な政府の援助としては、1867年以降、労働者階級の男子を対象とした補助金の対象科目(特別科目)を増設し、さらにそこへの補助金を増額した。また一方で、女子に対しては、男子のような特別科目ではなく、家事・家政科目を補助金交付の対象科目として加えたという、明らかに男女区別されたカリキュラムによって、国家の教育界における中央集権化を徐々に進めていったのである。以上のことから、民衆教育(とくに男性に対する教育)の役割とは、国家(帝国)的な繁栄、および、安定のために今では無視できない存在となった、労働者階級の男性(男子も含む)を、将来は熟練工、現場監督、経営者、技術者などといった責任のある地位にまで昇進させ、国家的に貢献できる優秀な人材を育成することにあったのだと思われる。さらに、女子教育の役割をも踏まえたうえで、当時のイギリスにおける教育の役割を再考すると、一方の女子教育の場合は、男性が、外の世界での仮借ない競争の世界で、一日の労働を終えた後に、非難することのできる、安全と調和と休息と快適さを備えた「天国」を創造する、まさに「家庭の天使」を育成することであったのだといえるだろう。そして、これら両者がバランスよく成立してこそすべての、つまり国家に対してはもちろんのこと、帝国に対しても安定がもたらされるのであると考えると、女性に対する教育にこそより国家的に重要な(帝国の安定と維持における土台としての)役割があったのであり、したがって、イギリスの教育は男女を統括したとしても、やはり民衆のための教育ではなく、国家のための教育であったといえるのではないかと考える。

19世紀イギリス社会の特徴と民衆教育遅滞の原因との関連

最終的な結論を述べる前に、これまでのまとめとして、経過を簡単にたどると、まず、ⅡとⅢにおいて見たように、政府の民衆教育に対する熱意の低さ、冷淡さこそが、宗団(ボランタリー)の教育への執着心の表れと相互的に影響しあい、結果として公教育制度確立遅滞の特に大きな原因となったのではないか(宗団が熱心である一方で、政府は、中流階級以上の教育に比べて民衆教育に対しては比較的消極的に見えるため、教育の近代化が遅れたのは宗団というよりは政府の熱意の低さに問題があるのではいか)という単純な考えに至った。しかし、Ⅳにおいて述べたように、国力が衰え始めるのを目の当たりにする1867年頃を境に、政府は民衆教育に対しての態度を一変し、男子への普通科目、女子への家事科目への補助金の拡大を図るなど積極的になってきているということから、政府の19世紀後半に至るまでの教育に対する消極性は、熱意がないというよりかはむしろ、帝国の衰退や他国の躍進に対する政府の危機感の低さに起因する、要するに民衆教育普及における国家的価値の低さにあった(勿論、政府内部構造の問題、要するに、ホイッグ党の二面性や民主化されない改革議会の不徹底さによる影響もあるだろうが)のではないか、そして、そうした、主に民衆教育に対する政府の国家的な価値観の低さこそが、政府の教育に対する実質的な行動を抑制している根本的な原因であり、したがって、その政府の国家的危機感と価値観の低さが教育の近代化が遅れた原因ではないかと考えた。しかし、その後の研究から、たとえ、政府が、19世紀の後半(1867年)まで、態度としては比較的消極的であったとはいえ、一方では1833年を境に、すでに19世紀の前半から国庫補助金交付を始め、二つの宗団を窓口として間接的ではあるが徐々に教育界に介入・干渉し、労働者階級の教育政策を推進すべくあらゆる努力をしてきたという、矛盾した行動をととっていたことが明らかになったことから、意外にも政府は、危機感を感じる以前の19世紀前半から公教育政策を推進すべく行動を起こしていたのだという事実がわかった。ここで当然のことながら疑問に思うのは、ではなぜ、(消極的な態度を見せながらではあるが)政府が1833年から徐々に実質的な努力をしてきているにも拘わらず、国民への公教育が正式な制度として法的に確立されたのは、19世紀も後半になる1870年になってからであった、という点に関して、そして、当時の教育界において教育を推進すべく努力をしていた勢力が二つ存在していたとしたら、その両者、すなわち、宗団と国家の教育に対する責任はどのような比率で負わされていたのかということである。そして、以上の疑問点に関して、結局のところ、これらは(特に前者の政府の努力にも拘らず公教育制度確立が遅れたことに関しては)、単に、Ⅱ~Ⅳにおいて述べてきたように、宗団の執着心の強さ、あるいは、19世紀後半に至るまでの政府の消極的な態度、要するに、1867年に至るまでの民衆教育に対する政府の国家的な価値や危機感の低さ、あるいは、政府内部構造の問題(要するに、ホイッグ党の二面性や民主化されない改革議会の不徹底さによる影響)という、宗団と政府による諸事情のみに限定された狭い範囲の中だけで説明できることではなく、19世紀の社会的なより広い枠組みの中で捉えられるという考えに至った。

では改めて、なぜイギリスの公教育制度確立(教育の普及)は遅れたのであろうか。その根本的な遅滞原因としては、Ⅱ~Ⅳまでに見てきたように、特に、従来からイギリスにおける教育権を支配していた宗団、そして、教育界への干渉を図る政府、という二つの大きな勢力の存在が関係していたことがまずいえるであろうが、最終的に結論づけた原因としては大きく分類して二つある。第一に、イギリス社会の特徴そのものが、1870年基礎教育法だけではなく、その制度確立の遅滞そのものに反映されたということである。すなわち、イギリスの教育は、少なくとも国家による就学の強制がなされ、ボランタリーによる学校やデイム・スクールが淘汰され、教育の世俗化が進み、社会の学校化がなされる1880年頃までは、国家が主導的に統制し国家自らの手で与えられるものではなく、あくまでも、宗団(ボランタリー)などの地域組織が主導的な存在であった。言い換えれば、少なくとも学校化社会を迎える1880年以前のイギリス社会は、国家が自ら主導となって教育を梃子に国民を統合・統制するのではなく、必要最小限に教育に干渉する(国庫補助、教育の強制など)ことによって、社会の諸個人と任意団体の持つ力を最大限に発揮させるべく、その援助をする、というパートナー・シップの特徴をもっていたのである。したがって、19世紀の大部分にわたって、あくまでも補助的・副次的な立場に過ぎなかった国家の教育界における責任は、ボランタリーに比べて、元々それほど重いものとしては考えられていなかったのであり、同時に、国家の教育に対する努力自体も、せいぜいある程度制限された範囲内(ボランタリー主導のもとでの就学の強制や資金援助、カリキュラムや評価の統制のみ)でのものに過ぎず、より包括的な統制は国家にとって不可能であったのだといえる。言い換えれば、もともと国家には、「それ以上の」努力をする必要どころか、その義務さえもなかったのである。第二に、以上のような社会の中で政府に課せられた「最小限の」努力(義務・責任)においてでさえ妨害する諸弊害が存在していたということ。すなわち、①労働者階級側の教育観による影響。次に、一つ目の弊害とも密接に関わり合う、②児童労働の問題による影響、そして、当時から公教育部門の裏側で、公教育学校とほぼ拮抗しつつ民衆教育に大きく貢献していたとされる、③労働者階級プライベイト・スクール(特にデイム・スクール)の存在による影響があったということである。以上のように、政府が努力をしていたとはいえ、その努力の範囲には社会的、法的に定められた「限界」があったということ。そして、その「最小限の努力」にも諸弊害が存在したということが最終的な結論である。つまり、政府が努力していたにもかかわらず、公教育制度が遅れたのは、政府のみに原因があったわけではなく、当時のイギリス社会そのものに、その原因となる要素(ボランタリー中心の風潮や、就学の強制を妨害する諸事情など)が存在していたのである。そして、こうした当時の教育界における二つの勢力に負わされた責任が、そのようなアンバランスな状態であっても、少なくとも教育面においては、それほど問題ではなかったという、(例えば、学校化社会に至る以前にもうすでに民衆の中に識字環境がすでに整っていて、続いてリテラシーが上昇したことなども、別に国家によって統制された学校が大きく貢献したわけではなく、ボランタリーなどの地域組織による努力やデイム・スクール、あるいは、家庭教育を含め、子どもたち自身による独習能力など、なかば民衆の自律的な努力によって達成されたものであるというように、国家による主導的な統制やシステムなしで上手く成り立つ余地があったということ)、当時のイギリス社会そのものの自由な風潮こそが、公教育制度遅滞の最も大きな原因ではないだろうか。

安川哲夫『ジェントルマンと近代教育―「学校教育」の誕生』
宮川敏春「英国人らしさの理想と教育―ヴィクトリア朝期の訓育と母国語教育を中心に」
Jane Martin”Gender and Education in England since 1770: A Social and Cultural History” (Gender and History)
Janina Böttcher”Education in England:Gender Inequalities in Secondary Schools”

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