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【日本の英語教育は無駄?英語の資格試験は無意味?】英語教育&英語学習の誤解9選〜意外と知られていない英語教育界の常識〜
目次
日本の英語教育は昔から変わっていない??誤解されたまま批判され続ける学校英語
「使える英語力」として、特に話す力の重要性が強まる中で、個人的に違和感を抱いていたのが、まるで「使える英語力=話せる力(英会話)である」というように多くの人に認識され(「話す力」のみがやたら重要視され)、その「話す力」を伸ばす上での「弊害」として、文法力・読み書きの力・試験英語(受験英語、資格試験など)が軽視されること。
そして、その結果として、(学校の英語の授業は無意味・無駄である、日本人が英語を話せない元凶は学校英語教育、英語教師の英語力が低いからなど)学校の英語教育や英語教師に対する批判が増えたことでした。
「それまでは、「文法訳読法」と呼ばれる指導が主流で、
文法を説明し、英文を解釈し、日本語に訳す、という教え方だった。
今でも年配者は自分の受けた文法訳読の授業をよく覚えていて、
「あんなことをやっているから、使えるようにならないんだ」と学校英語を手厳しく批判する。
そのような一般的な空気が財政界を動かし、
文法訳読が「日本人の英語をダメにしている悪者」として有害視されるようになり、
その対極として「コミュニケーション重視」の英語教育が登場するに至った。」
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
また、話す力(英会話)が過度に重視されるばかりに、(英語の四技能を重視して作られているにもかかわらず)英語の資格試験までもが軽視され、「実践的ではない無意味な試験・無駄な勉強」だと捉えて批判する人も少なからずいます。
私が違和感を覚えた理由は、経験上、これら(読む力、書く力、文法力、英語教育=学校の英語の授業、英語教師の存在、英語の資格試験の勉強など)は、いずれも弊害になるどころか、むしろ、話す力を含め四技能をバランス良く伸ばす上での土台となったと痛感しているからです。
そして、現在の英語教育に関する一般の方々の認識(英語教育批判)に対しても、少なからず違和感を持った(誤解されたまま批判されているように感じた)からです。
現代の日本における英語狂騒の裏には、おおよそ次のような認識がある。
『これからの国際化の時代、世界語たる英語の需要はますます高まるというのに、
多くの日本人は、中学・高校で六年間も英語を学びながら、
さっぱり英語が使えるようにならない。
これは、文法や読解を中心とした、コミュニケーション軽視の受験英語ばかり勉強するせいである。』
中略
昨今の大規模な英語教育改革も、基本的にこのような認識に基づいて行われていると言っていいだろう。
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
英語教育&英語学習の誤解9選
誤解1、日本の英語教育は昔から変わっていない
誤解2、使える英語=話せる英語(英会話)
誤解3、日本人が英語を話せないのは、英語教育・英語教師が悪いから
誤解4、学校の英語教育が変われば、日本人の英語力は上がる
誤解5、英語のシャワーを浴びれば、英語が自然と使えるようになる
誤解6、英語の資格所持=英語の運用能力がある
誤解7、英語の資格は無意味
誤解8、文法は必要ではない
誤解9、独学で英語習得は難しい(特にスピーキング)
誤解1、英語教育は昔から変わっていない
英語教育は昔のままで変わっていないのか?
結論から言うと、もうすでに学校英語は「コミュニケーション中心主義」の授業に変わっています(鳥飼先生がおっしゃるように、このことはほとんど一般の方々には認知されていませんが)。
従来とは全く異なる”生徒主体”の「話すことを目的とした授業」(平易な英会話中心)に変わった結果、皮肉にも(逆に)学校英語教育としての本来の役割(生徒に「総合的な英語の基礎力」を身に付けさせるという役割)が果たせなくなり、日本の英語教育は危機に陥ってしまったとされます。
「日本の学校英語教育は、教師主導による(文法や読解指導に偏った)一方的な教育であり、
そんなことばかりやっているから何年英語を勉強しても話せるようにはないらないんだ。
もっとコミュニケーション(英会話)を重視すべきだ。」
「日本人が英語を話せないのは、日本の学校英語教育が悪いからだ。」
などと、日本の英語教育はよく批判されますが、冒頭の引用にもあるように、文科省は、上記のような一般の声(批判や要望)を反映して、以下のように、「話すこと」を重視した大規模な英語教育改革を次々と進めてきました。
高等学校指導要領を改訂し、外国語の指導要領にオーラルコミュニケーション重視の方針を盛り込む(平成10年)
小学校の総合的学習の時間に「国際理解」のための「外国語会話」と称して英会話を導入(平成14年)
「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想を公表(平成14年)
大学入試センター試験へのリスニングの導入(平成18年)
その他、スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクールの指定、
ALT(外国語指導助手)の有効活用をはじめとする様々な施策案を打ち出す、など。
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」参照)
そして、結果として、以下のように現在の英語教育(英語の授業)は、昔とは異なる、生徒主体の「実践的なコミュニケーション中心主義」に変わっています。
現在の英語教育・英語の授業例
❶英語の教科書の本文は、以前(文学や論説文中心)とは異なり、ほとんどが会話形式(平易な表現)で書かれています。
❷読解の指導方法は、(ただ日本語に訳すなどの従来のような訳読ではなく)様々な形での音読、ロールプレイング、ペアでのスキット作りなど、あらゆるコミュニケーション活動(話すこと)を通して学びます。
❸文法指導も、教師主導の(文法の詳しく丁寧な説明のみに偏った)指導ではなく、あくまでも生徒主体で、コミュニケーションを通して(使いながら)学ぶスタイルです。
従来のように、授業の大半の時間を、先生がひたすら一方的に文法説明をしているのではなく、(新学習指導要領に従って)実際のコミュニケーション活動(簡単な英会話)を通して学ばせます。
教師によってそれぞれ形は異なりますが、(必要最低限の)文法や語彙や発音を、生徒主導で楽しみながら自然に身につけることができるように、それぞれ工夫して授業を組み立てていると思います。
❹アクティブ・ラーニングに基づく様々な言語活動
例えば、基本的な文法事項(キーセンテンス)を学んだ後に、リアルな状況を設定して実際に使う体験学習・グループ/ペアワーク(問題解決型授業)・ALTを含めて全体でインタビュー活動・プレゼンやディスカッションやディベート・様々な形式での自己表現&紹介活動(自由英作文、ショウ&テルなど)。
「日本人が英語を話せないのは学校教育が悪いからだ、という批判は多くの人が共有している。」
「ところが、今の学校英語教育は昔と同じではない。
「話せるようになる」英語教育に様変わりしているのだ。
もちろん、昔ながらの流儀で授業をしている英語教員がいないわけではないが、
原則として、政府および文部科学省による「コミュニケーション重視」の方針に従い、従来とは全く違う英語教育が全国的に展開されている。」
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
誤解2、使える英語=話せる英語(英会話)
使える英語=話せる英語ではない理由
特に、「使える英語」=「話す力」(英会話)と捉えられ、結果として、学校英語教育においても、口語によるアウトプットが重視される(重視すべきだと批判される)傾向にありますが、そもそも、これ(使える英語=話せる英語だという認識自体)は「コミュニケーション」という概念に対する「誤認」であるとも言われます。
「コミュニケーションに使える英語」が具体的にどのようなものであるべきか、
という突っ込んだ議論がなされたわけではなく、
コミュニケーションとは「英会話」だと解釈されたようで、
「文法」や「訳読」は否定され、
「コミュニケーション」という名の「英会話」が新たな主役となった。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
鳥飼玖美子先生だけではなく、斎藤孝先生と斎藤兆史先生も、以下の共著において、同様のご指摘をされています。
「困ったことに、現行の英語教育改革を推し進めている人の多くは、
『コミュニケーション能力』を『実践的な聞き取り・会話能力』と読み違えています。
だから文法を気にせず、自由な自己表現をせよと言うわけです。(斎藤兆史)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
文科省の(間違った認識に基づく)英語教育改革とは?
「日本の英語教育が変われば、日本人の英語力は上がる。」
「英語の授業でもっと英会話を重視すれば、日本人は英語を話せるようになる。」
「日本の英語教育は、コミュニケーション重視に変わるべきだ。」
このような声もよく聞きますが、上記の通り、(一般の人たちの批判や要望を受けて)日本の学校英語教育は、すでに「話すこと」を重視した教育に大きく変わっています。
ただ、こうした文科省の(コミュニケーション=話すことを重要視した)英語教育改革は、必ずしも期待通りの成果を出した(成功した)とは言えず、いくつかの問題点が指摘されています。
そもそも、この英語教育改革自体が(文科省や一部の専門家の)「実践的コミュニケーション」や「実用英語」という言葉に対する誤認に基づくものであったと言われています。
つまり、本来は、「コミュニケーション・実用英語」=「四技能が使える英語」を意味していたにもかかわらず、多くの日本人によって、誤った解釈をされ(コミュニケーション=話す力のみ」を指しているものとして誤解され)、その結果として、(英会話を重視した)文科省による大規模な英語教育改革が行われてしまったという問題です。
例えば、以下の二人の主張をめぐる論争が、この(間違った認識に基づく)英語教育改革の一つの発端になったとされます。
英語教育史に残る大論争「平泉・渡辺論争」(1974〜)
渡辺昇一(上智大学教授、「教養のための英語」を主張)←従来の英語教育・英語教員を擁護??
以上のように、
「実用英語のための英語」(話せる英語)の重要性を主張した平泉氏 VS 「教養のための英語」(読み書きなど)の重要性を主張した渡辺氏という構図で捉えられ、二人の主張は相反するものとして議論されました。
「実用英語」という言葉だけが一人歩きし、
平泉氏の真意から離れた解釈が流布されている多くの英語教育関連の書籍でも、
「話せるための英語」を主張した平泉氏と
「教養としての英語で構わない」と述べて英語教員を守ろうとした渡辺氏という図式が定着している。」
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
しかし、そもそも平泉氏が意味していた「実用英語」とは、話せる力も含めた四技能のことでした。
それを、多くの日本人が、実用英語=話せる英語だと、誤認してしまったということです。
(実用英語の)平泉渉氏は、日本人の英語を「会話能力が欠如している」だけではなく、
「ほとんど読めず、書けず、わからないというのが、偽らざる実情である」と喝破し、
読み書き聞き話すの四技能が使える英語を「実用英語」と呼んだ。」
平泉氏は、「コミュニケーション」を、読み書きも含め広く捉えて考え、
コミュニケーションという実用に使える外国語能力を指して「実用のため」と語っていたのだが、大半の日本人は、「実用英語」という言葉を「話せる英語」と狭義に解釈してしまったのが、誤解の源である。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
そして、皮肉にも、その後、文科省により「話すことを重視した(誤認に基づいた)英語教育改革」が進められていきました。
「平泉思案」は、「実用に使える英語」の提案だと誤解されたまま社会に浸透していった点が否めないように思う。
事実、その後は、「コミュニケーションに使える英語」を目指した改革が、雪崩のように英語教育界を襲っていく。」
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
誤解3、日本人が英語を話せないのは、英語教育・英語教師が悪いから
英語教師は英語ができない?
日本人が英語を話せない原因の一つとして、(学校英語教育に対する批判に付随して)
英語教師の英語力不足が指摘されたり、ネット上では、資格試験の結果に基づく英語教師批判もよく目にします。
「このような実態を報道で知った人たちは、
日本の学校英語は相変わらずダメなんだ。
先生からして英語下手じゃ生徒ができるようになるわけない、と納得してしまうだろう。
日本人教員が文法だの読解だのばっかりやっているからダメなんだ、
昔っから日本の学校英語はそうなんだよ、俺の時もそうだった、
私も学校で習った英語は海外で使えなかった、
と「昔から変わりなく無意味な英語を教えてきたから、このザマだ」という結論に落ち着くことになり、
ますます「使える英語」「話せる英語」への国民的圧力が強まることになる。」
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
こちらで詳しく書いていますが、英語教師に限らず、個人の英語力を測る上で、「資格試験が全て」ではなく、公立学校の英語教師になる上で、英語の資格試験は、必須の条件でもないので、
(資格試験のみに基づいて)「英語教師は英語ができない」と決めつけることはできないし、こうした捉え方は、一面的な見方に過ぎないと思っています。
少なくとも自分が知る限り、資格のあるなしにかかわらず、英語力も指導力も共に優れた先生をたくさん見てきました(勿論、これはあくまでも私の経験に過ぎず、自治体や学校によって状況は異なり、教師の指導力や英語力にも差があることは事実であり、必ずしも全ての先生に当てはまるということはないと思いますが)。
そもそも、英語教師の本来の役割は、自身の英語力を伸ばすことではなく(勿論、専門である以上、それも大切ですが)、生徒の英語力を伸ばすこと(指導力を高めること)であり、
また、英語力が高い=英語を教える力が高いというわけでもないと考えます。
既述したように、(教師が英語で授業を行い)生徒主体のコミュニケーション=(教師よりも生徒が)話すことを重視した授業に変わってからも、
依然として、生徒の英語力には、それほど大きな成果が見られないというのが現状です。
英語教育が難しいのは、教師の力量は必須だとしても、
教師が頑張れば、たちまち成果が上がるわけではないことだ。
「英語で授業」をする為に、多くの英語教師は努力しているが、
数年以上を経過しても、生徒の英語力が向上したという成果は出ていない。
それどころか、文科省が目指した
高校生の半数以上が英検「準2級」以上という目標を達成できていないのが現状である。
それは、大学に入学してくる学生の英語力が落ちてきていることにも表れている。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
この(成果が見られない)原因は色々あると思いますが、(「コミュニケーション重視=英会話重視」だと誤認した結果として行われた)文科省による英語教育改革が背景にあるのは皮肉です。
話すこと(英会話)を重視するばかりに、四技能の土台となる文法や読み書きなどが軽視されて、肝心の基礎力が身についていない(学校英語教育本来の役割を果たせていない)という、結果として、本末転倒な状況になってしまっているからです。
学校英語教育の本来の目的は「基礎力」をつけること
「中学・高校で習った英語は少しも役に立たなかった」とは耳にタコができるほど聞かされるセリフですが、
学校における英語教育の役割は、のちに個人個人の必要に応じて自分に適した英語力を作っていけるよう、基礎力をつけることです。(斎藤兆史)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
上の引用の言葉にあるように、学生時代の経験や記憶(英語の授業)を基にして、学校英語教育はよく批判されますが、そもそも学校英語教育で生徒が学ぶ(教師が教える)べきことは、「英会話ができるようになること」ではなく(勿論、いずれは英会話ができるようになることも視野に入れて)、文法、語彙、発音、構文などを含め英語の基礎力を身につける(身につけさせること)だと思います。
勿論、英語を学ぶ目的や考え方は、人それぞれであり、正解はありません。
英会話力を伸ばしたい人、
英語の資格を取りたい人、
国際的に通じる高度な英語力(四技能)を身につけたい人、
留学をしたい人、
ネイティブ並みの英語力を身につけたい人など。
目的や目指すレベルに応じて勉強方法も一人一人異なると思います。
が、いずれの力を身につける上でも、土台となる英語の基礎力は大切であり、その力をバランスよく身につけさせるための役割が、学校英語教育にあるのではないかと考えます。
「英語学習においても、「使える技があってこその自由」です。
型の訓練や技の習得無くしてできる自由な自己表現など、
結局のところ、基本を疎かにした我流でしかあり得ません。
従来の英語教育の反省の上に立った改革を推し進めるのはいいにしても、
変えてはいけないもの、継承しなくてはいけないものまで否定するやり方では、
日本の英語教育はむしろ後退してしまう。
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
つまり、学校英語教育(英語教師)の役割は、いずれ、それぞれの生徒の目的に応じて、それぞれの形で、学校英語教育で学んだことを役立たせるために(役立てるかどうかは、それぞれの目的や自分次第だとも思いますが)、「しっかりとした土台を作ってあげること」であり、それ以上でも以下でもないと考えます。
誤解4、学校の英語教育が変われば、日本人の英語力は上がる
上述してきたように、日本の学校英語教育は、コミュニケーション(話すこと)重視に変わっていますが、このことは、(以下に鳥飼先生がご指摘されているように)世間一般的には、あまり認知されていない(認知されないまま批判されている)ように思います。
そして、英語教育の改革を行った(英語教育が変わった)にもかかわらず、上記のように、「その成果さえも出ていない(日本人の英語力は期待されたほど改善されていない)」と言われます。
「日本人の「とにかく英語を話せるようになりたい」症候群ともいうべき「見果てぬ夢」が透けてみえる。
その願望を満たすべく、社会からの強い要望に応えて、
文科省が「話すこと」を重視した英語教育に転換して30年近く経つのに、さしたる成果は出ておらず、
社会的に会話中心の英語教育へ向けての改革は全くと言って良いほど認知されていない。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
「日本人は読み書きができても話せない」とは本当か?
日本人は、読み書き重視の教育を受けてきた結果、読み書きはできるけれど、英語を話すことができない。
こうした声もよく耳にしますが、これも誤解(思い込み)であると言われます。
「日本人は、読み書きはできるけれど、話せないのが問題」というのは、
だいぶ昔の状況を根拠なく敷衍(ふえん)しての思い込みであり、
最近の大学生は、読み書きが苦手で、四技能の土台となる「読解力」が著しく低下している。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
つまり、日本人は、「英語を話せないだけではなく、読み書きもできていない」のが現状であると。
学習指導要領が1989年に改訂されて以降、およそ30年近くにわたり、
会話重視の英語教育改革が次々と行われた。
その結果、現在の若者は、以前よりもっと読めなくなり、したがって書けないし話せない。
そのような実態は、英語教育関係者には知られているのだが、
一般には驚くほど認識されておらず、マスコミからして「日本人は、読み書きはできるけれど話せない」という言説を流布し強化している。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
そして、何度も書いていますが、その(日本人の英語力が上がっていない)原因の一つは、皮肉にも、文科省による(話すこと=英会話を重視した)英語教育改革にあり、さらに、話す力としての英会話を重視(文法や読み書きの力など基礎力を軽視)した結果、日本人の総合的な英語力が低下してしまったことが問題視されています。
私は過去20年近く、大学に入ってくる学生の英語力を見てきました。
ピジン英語のような低級な英会話ができる人間は増えたかもしれませんが、
「読み書き」を含めた総合的な英語力はものすごく落ちました。
文科省で定められた高校三年生修了時での検定試験の目標数値を見ると、驚くほど低いんですよ。(斎藤兆史)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
低級な英会話重視による弊害「英会話ごっこ」?
以下は、英会話を学んでいる一般の人たちを批判しているわけではなく、あくまでも、学校の(平易な英会話ばかりを重視する)英語教育に対する危機感です。
英語が「できる」とはどういうことか、
日本人にとって必要な英語力とはどのようなものか、
学校における英語教育の役割とはどういうことか、
と言った議論が充分になされないまま、
「実践的コミュニケーション能力育成」の名のもと、
文法軽視の「英会話ごっこ」が展開されているのが今の英語教育の現場です。(斎藤兆史)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
さらに、斎藤孝先生は、このことは、英語教育のみならず、日本語教育においても同じである(口語表現重視で、文法や読み書きなどが軽視されている)とおっしゃいます。
「日本語の場合、この国に暮らしていると、
なんとなくできるようになるとみんなどこかで思っていますが、
実際には、誰もがちゃんとした日本語の文章を書けるかといえば、
実際には書けませんよね。
読むにしても、ある一定以上のレベルで書かれた本になると、かなりの人が読めなくなる。」
「つまり、日本語は誰もが自然にできるというのはまったくの勘違いで、
日本語をちゃんと使えるようになるには訓練が必要である。」(斎藤孝)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
英語の教科書同様に、国語の教科書の文章も平易なものに変わり、生徒の読解力を養うには不十分であると。
英語のレベル(松・竹・梅)とは?
斎藤孝先生と斎藤兆史先生は、(鳥飼玖美子先生と同様に)コミュニケーション=話せる力を重視する(と同時に、読み書きなどの基礎を軽視する)日本の英語教育に対する危機感を共有されています。
つまり、話せる力を重視するばかりに、現状として、学校の英語教育は、「低級な英会話ごっこ」に止まり、将来、国際的なコミュニケーション力を養う上で、大切な土台となる(本来学校で教えるべき)英語(四技能)の基礎力が身につかなくなっているのではないかという懸念です。
「コミュニケーションにも「松・竹・梅」のレベルがあって、梅のコミュニケーションは永久に梅です。
松のコミュニケーションがしたかったら、話し言葉だけでは絶対に無理で、書き言葉がちゃんとできなくてはだめだとか、高度な技の習得が必要です。(斎藤孝)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
国際的に通用する実践的なコミュニケーション能力(松の力)を育成する上では、話す力のみに偏らず、英語の基礎(文法、語彙、発音、構文など含めて四技能)が重要であり、その基礎力を身につけさせることが、本来、果たすべき学校英語教育の役割であると思っています。
正しく意思を伝えようと思えば、そこに至るまでにいくつもの段階があり、
(斎藤孝先生が)おっしゃるように書き言葉における高度なレベルまでいかなければ、本当の意味での国際コミュニケーションなんてできっこありません。
英語で「コミュニケーション」を図れる国際人を育成するというなら、およそ実践的でない基礎から始めなくてはならないのに、現実にはハンバーガー屋での会話です。(斎藤兆史)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
英語の四技能の土台となる力とは?
既述したように「使える英語力」が重要視されるようになり、特に「話す力」を伸ばすことの大切さが強調される一方で、「読み書き」(語彙力・文法力など含む)が軽視されたり(と同時に、英語教育が批判されたり)インプット(単語、文法、読むなど)よりもアウトプットが重視される傾向があります。
アウトプットが重視されること自体は良い傾向だと思いますが、「話すこと」のみに偏って捉えられることが多いように思われます。
本来、アウトプットとは「話す」だけではなく、「書く」ことも含まれるのですが、(読む力と同時に)書く力が軽視されることが多いからです。
「書く力」は「話す力」の土台になる
が、こちらでも書きましたが、少なくとも自分の経験上、書く力が、話す力を伸ばす上での障害になるということはなく、むしろ、(日常会話においても資格試験のスピーキング力においても)書く力は、話す力の土台になったと私は思っています。
ちなみに、私の知る留学生(非ネイティブ)に関しても、自分の言いたいことを表現する(話す)上で、まずはノートなどに(自分の言葉で)「書いている」人が多いです(とても英語が上手な友人の「話すことを事前にまとめたノート」をたまたま見て、驚いたことがありました)。
実際に、「一度書く」ことで、必要な語彙や表現だけでなく、話の流れなども明確になり頭が整理される(その上で、一人で話す練習もする)ので、その後の会話や議論はスムーズに進みます。
このように、(書いて)インプットしたことを、なるべく早く使う(話す)ことで確実にその表現は「自分のもの」になっていきます。
そうした「ストック」(事前に書いて一人で練習⇄実際に話すの積み重ね)が、結果として、表現力や語彙などを豊かにし、自分の言葉や文脈で「話す力」に繋がったと、私自身も感じています。
さらに、学校の英語教育(文法、読み書きなど)が無駄だったとも個人的には思っていません。
むしろ、私の場合、以上の全てが、(松竹梅で言えば、松の力を身につけることを目的とする上で)英語の四技能の基礎を固める土台になったからです。
大切なのは四技能のバランス
英語学習に正解はないと思いますが、個人的に、少なくとも英語の基礎を固める段階においては、(どれか一つの技能や一部の力を伸ばすことに偏らず)、それぞれが目指すレベルに応じて、段階的に四技能をバランスよく伸ばしていくことが大切だと思っています。
私自身、「使える英語」=「基礎(語彙・文法・発音など)+四技能のバランス(読む・聴く・書く・話す力)」だと捉えています(なので、インプット⇄アウトプットを基盤に、いずれの技能も偏りなく、バランス良く身につけることを念頭に学習してきました)。
それぞれの技能は、相互に関連し合う(インプット⇄アウトプットを繰り返す)ことで、磨かれていくものであり、いずれかが欠けていると、「使える英語力」にも偏りが生じると考えるからです。
四技能バランスよく伸ばす(基礎力を身につける)ことで、(仕事・日常生活・アカデミックなど)あらゆる場合において、状況や目的に応じて、臨機応変に「使える(使い分ける)英語力」(基礎力→応用力)を身につけることができると思っています。
「私に言わせれば、日本語と英語との構造的な差異もわきまえず、
日本の風土も理解しない欧米の学者が開発した音声中心の「実践的な」言葉を奨励したあげく、
ピジン英語話者を大量生産し、その一方で、表現のニュアンスを生かして
政治や文化を語ったり、高度な議論を展開するには使えない、
そんな英語を学習することが「科学的」とはとても思えないのです。
まして、そこに国際舞台で通用する英語力の育成を求めるなど、ちぐはぐな感が否めません。
そんな教育よりも、当面は実用的ではないにしても、
個々人が必要に応じて学習を積み上げていけるように基礎力を与えることの方が、よほど重要ではないでしょうか。
逆に言えば、学校でできるのはそこまでなのです。」(斎藤兆史)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
くどいようですが、英会話を学んでいる一般の方に対する批判ではなく、(平易な英会話ばかりを重視して、読み書きなどの基本を軽視する)学校英語教育に対する危機感です。
誤解5、英語のシャワーを浴びれば英語が使えるようになる
基礎力なくしてあり得ない幻想
使える英語の重要性が増す中で、
「英語をシャワーのように浴びれば、自然と英語が使えるようになる」
という言葉もよく耳にするようになりました。
が、これも幻想である(基礎力なくしては、いくら英語をシャワーのように浴びても、きちんと「使える英語」は身につかない)と考えます。
「英語をシャワーのように浴びれば英語が使えるようになるというのは、まさに幻想ですよ。
日本人であっても、日本語がちゃんと使えない人間はたくさんいます。」(斎藤孝)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
英語を学ぶなら英語(のみ)で学ぶ・教えるべきか?
英語などの外国語を学ぶ上で、その身につけたい言語のみ(英語なら英語のみ)で学ぶことの重要性も指摘されます。
「英語学習において、上達したいなら母国語(日本語)を使ってはいけない。」
「英語は英語で(英語オンリーで)学ぶべき。」
「英語の授業は、日本語を一切使わずに、英語だけで教えるべきだ。」
私も以前はそう思っていたのですが、(大学の講義などを通して)これは必ずしも正解ではないということを学びました。
「海外の外国語教育研究においては、母語の使用と翻訳の効用を積極的に認める流れが出てきている。
例えば、世界の外国語教育に多大な影響を与えている欧州評議会による「複言語主義」では、
母語の重要性を指摘し、母語を活用しつつ母語以外に二つの言語を相互に関連づけて学ぶことで、
豊かなコミュニケーション能力を育成することを目指している。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
外国語を学ぶ(教える)上で、以下のように、あらゆるアプローチで指導が行われてきましたが、母語も使って学ぶべきだと結論づける研究もたくさんあります。
②バイリンガル・アプローチ(母語の使用を認める指導方法)
③コミュニカティブ・アプローチ
日本でも、1989年告示の学習指導要領から③のアプローチに依拠しました。
近年の主流であるコミュニカティブ・アプローチを念頭に、鳥飼先生は、英語での授業(学習指導要領)に関して、以下のような疑問を呈しています。
不思議なのは、コミュニカティブ・アプローチでは、母語の使用を禁じてはいないのに、
現行の学習指導要領から、突然、母語を使用せず英語を使っての授業が規範になっている。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
自分の経験からも、必ずしも、外国語を上達させる上で、母国語で学んではいけない(伸びない)ということはないと思っています。
実際に、英語を学ぶ上で、母語である日本語も、必要に応じて理解を深めるために使っていましたが、それが英語を学ぶ上で弊害になったことはなかったからです。
学校の授業も、英語オンリーで教えることの重要性が指摘され、(高校だけではなく、中学においても)教師は英語のみで授業を行うことを強いられます。
が、そこにはメリットもあれば、勿論デメリットもあり、英語の基礎力が身につかない一つの原因であるとも言われています。
実用重視への転換とともに導入された「英語による英語の授業」にも問題がある。
英語のインプットが少なく、母語からの影響も避けられない状況で、限られた時間と空間の中で英語を使ってみても、
「英会話ごっこ」に終わってしまうおそれはないか。」
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
特に、「英語のみで英語を教えること」に関しては、鳥飼先生に限らず、あらゆる面において、問題点を指摘する専門家が少なからずいます。
誤解6、英語の資格所持=英語の運用能力がある
「英語の資格試験が全て」ではない
既述した通り、(資格試験の結果に基づく)英語教師の英語力に関する批判は、多く見られますが、英語の資格試験だけをもって、(英語教師に限らず)個人の英語力を判断することはできないと思っています。
民間検定試験のスコアという数値でコミュニケーション能力がわかる、
と単純に考える傾向は、政界、経済界、一般社会に根強く蔓延している。
TOEICの得点を採用時に義務付ける企業が増えたのも、
そのような思い込みによるものだと考えられるが、高得点者を優先的に採用したところ、
英語力はあっても、商談どころかさっぱり仕事ができなくて困っている、
という報道が数年前から出始めるようになった。
これは、検定試験が測定できるのは、英語運用能力の一面にしか過ぎない点への認識が不足していたことの証明であり、
コミュニケーションを単に情報をやりとりするためのスキルだと軽視していることへの結果である。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
民間の英語試験を大学受験で利用することの是非
また、民間の資格試験を利用する大学受験や、それを目標として行われる英語教育に対しても疑問に思うことが多くあります。
(既に多くの議論が行われていますが)学校英語教育で学ぶ・教えるべき英語と、民間試験で求められる英語力は、根本的に質・目的・レベル・対象などが異なるからです。
高校生の時から大学入試を目指して
英語民間試験のスコアに一喜一憂して四年間を過ごすようでは、コミュニケーションに使える英語を学ぶことは望めない。
コミュニケーションというのは、数値には表れない、いわば人間力が反映されるものである。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
勿論、資格試験の勉強をすることで、英語力が上がるということはあると思いますが、私は、必ずしも「資格試験が全て」だとは思っていません。
「資格試験(持っているかどうか、スコアが高いなど)=その人の英語運用力(コミュニケーション力)が高い」というわけではないからです。
資格試験自体(結果や点数など)が、(生徒が英語を学ぶ・教師が英語を教える上での)目的や目標になってしまった場合、学校英語教育を通して、本来身につけさせるべき人間力や対人的なコミュニケーション力(英語運用能力)が身につかなくなるのではないかと考えます。
英語の「コミュニケーション」とは?
コミュニケーションという言葉は、定義が曖昧で難しいものだと思っています。
人によって、あらゆる解釈があると思いますが、鳥飼玖美子先生は(著書「英語教育の危機」において)以下のように定義されています。
(コミュニケーションとは)
文法や語彙などの言語知識、
一貫性を持って書いたり話したりする能力、
言語を状況に応じて適切に使える能力、
うまく話が通じないときにどうするかという能力、
相手の話の真意を汲み取れる能力、
そのような言語コミュニケーションに関する能力の基盤となるのは、
世界に関する一般的な知識(つまりは常識や教養)であり、
人間に対する洞察力や共感、
物事を学んで理解しようとする意欲など、
いわば、全人的な資質である。
しかも、外国語でコミュニケーションを行うとなれば、
異文化に関する知識に加え、
自文化を相対化して異質な文化を理解しようとする開かれた心が必須である。
対人コミュニケーションとは評価が難しく、数値では測定できないものである。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
コミュニケーションとは、数値では測れない、あらゆる人間的・知的な能力(全人的な資質)であり、(資格試験のスコアなどの数値によって)評価が難しいものであるということに共感・納得しました。
学校英語教育において、このような力を身につけさせる上で、(試験や点数などの)結果主義になり、教師の指導や生徒の学びに向かう姿勢が偏ってしまうことは好ましくないと考えます。
誤解7、英語の資格試験は無意味
とはいえ、英語の資格が、英語の運用力やコミュニケーション能力を伸ばす上で、まったく無意味だとも思っていません。
「英語の資格は、実用的ではなく、持っていても意味がない。」
「資格試験の勉強をしていても、英語が話せるようにはならない。」
「英語の資格を持っていても、英語が使えない(話せない)。」
などと批判されるだけではなく、「資格試験の勉強をしている・資格を持っている=英語が使えない・話せない」と決めつけたり、そうした印象(偏見)を持つ人までもいます。
民間試験の為の受験対策は、あくまで高得点を得るのが目的であり、
「効率的に解答する」「高得点を得やすい答えを考える」といった「傾向と対策」が中心となり、
「コミュニケーション能力」どころか、
紋切り型の検定試験対策に多くの時間を割き、「解答能力」を高めるための英語教育になり、
「使えない英語」の再生産に終わり、コミュニケーション能力につながることはない。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
これは、英語(資格試験)の勉強をしている一般の方に対しての批判ではなく、あくまでも学校英語教育(大学受験)において、民間の英語資格試験を利用することに対する懸念ですが、一般的にも、英語の資格試験に対して、上記のように否定的に捉えている方は少なからずいるように思います。
確かに、試験の結果(スコアや合否)にばかりこだわったり、結果のみを目的・最終的なゴールとして勉強(というよりも対策)をしている場合、このように思われても仕方がないのかもしれません。
ただ、人それぞれ価値観や考え方は異なるので、それぞれ、どのようなやり方・目的で勉強をしていたとしても、それはその人にとっての一つの正解なのだと考えます。
でも、勉強のやり方や考え方次第で、資格試験の勉強を通して、使える英語力=四技能、および、コミュニケーション能力(知識や教養など含む全人的な資質や力)を身につけることはできると個人的には思っています。
「資格は、長期目標ではない。つまり、最終的な目的ではない。」
「資格そのものが役に立つかどうかは、疑問である場合もある。
少なくとも資格を取得したからと言って、必ずしも職が得られるわけではない。
資格は、それ自体に意味があるというよりは、
勉強を進めるための目標であり、インセンティブだと考えるべきだ。」
(野口悠紀雄「超」独学法 AI時代の新しい働き方へ)
「資格試験(結果や点数など)=勉強のゴール(長期目標、最終的な目標)」として捉えるのではなく、それぞれの夢や目標に到達する上での手段・通過点として捉えること(資格を取った先に何がしたいか、何ができるようになりたいかを意識して勉強すること)が大切だと思います。
考え方や視点を変えることで、学び方も変わり、結果として、(資格を取った後に)身についている力もそれぞれ異なってくると考えます。
私にとっては、四技能をバランス良く伸ばす上で、英語の資格試験の勉強が無意味だったとは思わないし、むしろ、四技能を鍛えると同時に、異文化に対する理解を深めながら知識や教養も深めていくなど、あらゆる面で意味(価値)があったと思っています。
個人的に、英語の資格試験は、英語の四技能をバランス良く伸ばす上での大きなモチベーションにもなるので、上記の引用にもあるように、(ゴールではなく、夢を叶える上での)「目標」や「インセンティブ」(やる気を起こさせる外的刺激)として私は捉えています。
誤解8、文法は必要ない
文法は必要ないのか?
上記の通り、個人的には、(試験などではなく)日常会話であれば、基本的に、「伝わればいい」と思っています。
でも、文法の知識が全く必要ないというわけではなく、むしろ、文法の知識は大切だと思っています。
外国語習得に文法は必須であり、それがなければ自らの力でセンテンスを組み立てて書いたり話したりはできない。
読むにしても聞くにしても、文法の力がなければ正しく解釈することはできない。
(鳥飼玖美子「英語教育の危機」)
基本的な文法の知識は、英語の四技能の基礎を固める上で不可欠であり、語彙や発音などと並んで、英語学習者が大切にすべき、全ての英語力の土台だからです。
私の場合、学生時代に学んだ英文法の知識が、四技能を伸ばす上での土台になったと感じているので、上述したように、個人的には(学生時代に受けた英語の授業が)無駄だったとは思っていません。
ただ、文法の正確さ・完璧さにこだわるばかりに、英語を話すことを躊躇したり、間違えることを恐れて、逆に話せなくなるのは、(コミュニケーション=相手との意思疎通という、本来の目的を鑑みた場合)本末転倒だと考えます。
大切なのは、正しい文法の知識を身につけた上で、(間違えたり完璧でないことを恐れずに)最初はとにかく話す(自分の言葉で伝える)ことだと思います。
この過程(文法力・語彙力をつける⇄完璧でなくても話す)を繰り返すことで、徐々に自然な英語が身についていく(正しい文法・語彙を使って話せるようになる)と感じます。
「ネイティブではない人間が外国語を学ぶ時、文法は大きな武器になります。
その文法が軽視されるのは問題ですね。
文法というのは型でしょう。
相撲の四股みたいなもので、型を知っていると応用が利くし、効率よく学習できます。
話すにしても、文法がめちゃくちゃでは、論理的な会話はできません。」(斎藤孝)
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
日本語であれ、外国語であれ、言語学習の土台となる「型」(文法、構文、発音、語彙など)を身につけた上で、「技」(使える力、運用力)を磨くことが大切だと痛感しています。
「日本語力を鍛えるには、
日本古来の学習法である素読、朗読により「型」を体に覚え込ませ、
反復練習によって、「技」にまで高めることが重要である(斎藤孝)。
(斎藤孝+斎藤兆史「日本語力と英語力」)
誤解9、独学で英語習得は難しい(特にスピーキング)
四技能の中でも、特にスピーキングは、(会話の場合、話す相手が必要なので)「一人では勉強できない」と捉えられがちですが、経験上、「話す力」の基礎力(土台)をつける上で、一人での練習は絶対に欠かせない大事な過程であり、独学で(自宅で一人でも)伸ばすことは可能だと思っています。
むしろ、私の場合、一人での練習(インプット⇄アウトプット)なくして、話す力を十分に(その都度、自分が目指していたレベルまで)伸ばすことはできなかったとさえ思います。
私が日本で英会話力を伸ばした具体的な勉強方法(一人での練習方法など)については、こちらの記事で詳しく書いています。
日常英会話とアカデミックな英語の学び方の違い
「日常的に使用する英話力(日常会話力)」と「試験などで問われる英語力(アカデミック英語)」は、同じ英語であっても、目的も質も異なるので、勉強方法も異なります。
自分の経験上、日常英会話であれば、ある程度(必要最低限度)のインプットをした上で、対人的な会話量をこなす(最低限のインプット⇄アウトプットする)ことで、生活において不自由しない「使える英語力(会話力)」は十分に身に付いていくと思います。
が、英語の資格試験などのように、(発音・文法・語彙などの正確性、話の内容・中身も問われる)英語のスピーキングの試験に関しては、ただ量をこなすだけでは、合格ラインに達する十分な力は身につかない場合があると、個人的には考えます。
例えば、資格試験の合格や高スコアを目指す場合、スピーキング対策として、事前の一人での練習(求められているレベルに応じたインプット⇄アウトプット)なしに、オンライン英会話をどれだけ大量にこなしても、ある一定水準以上のレベルには到達することはできないと、自分自身の経験を通して感じています。
私自身、試験前にオンライン英会話(ネイティブキャンプ)で大量にレッスンを取っていますが、ただダラダラとレッスンの量をこなす(アウトプットする)だけでは、一定以上の伸びを感じず、どれだけやっても自信をつけることができなかったからです。
でも、事前に(科学や教育など、求められる水準に応じて、これから話すテーマに関して)ある程度、どんな話題でも対応できるように、一人で練習した(インプットとアウトプットを繰り返した)上でレッスンを(大量に)こなすことで、試験本番でも十分に対応できる「伸び・成長」と「自信」の両方を得ることができました。
なので、少なくともTOEFLや英検1級などのような(発音・語彙・文法・内容・対話力などが総合的に問われる)資格試験のスピーキング対策において大切なのは、一人での練習(良質なインプット⇄アウトプット)>対人的なアウトプット(オンライン英会話など)だと考えます。
四技能の土台は一人で学ぶ=独学力
私は、英語に限らず、どんな勉強でも、基本的に、一人でやるもの・一人でもできるものだと思っています。
例えば、英会話やスピーキングの試験において、対人的なアウトプットは勿論大切ですが、既述したように、誰かと話す前に、ある程度の準備(一人での練習・インプット⇄アウトプット)が必要になると思います。
そして、そのインプット(読む・聴く・書く)⇄アウトプット(話す・書く)の基本となるのは、主体的に学ぶ・一人で練習する力(独学力)だと考えます。
今ではオンラインでの学習も可能な時代なので、自宅で一人で英語力(四技能)を伸ばすことも可能です。
まとめ
英語教育&英語学習の誤解9選
誤解1、日本の英語教育は昔から変わっていない
誤解2、使える英語=話せる英語(英会話)
誤解3、日本人が英語を話せないのは、英語教育・英語教師が悪いから
誤解4、学校の英語教育が変われば、日本人の英語力は上がる
誤解5、英語のシャワーを浴びれば、英語が自然と使えるようになる
誤解6、英語の資格所持=英語の運用能力がある
誤解7、英語の資格は無意味
誤解8、文法は必要ではない
誤解9、独学で英語習得は難しい(特にスピーキング)
勿論、全ての人が陥っている誤解ではなく、全ての人に当てはまる正解でもないと思いますが、今後、英語を学ぶ上で、誰かにとって参考になるものがあれば幸いです。
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